30年で大地震の確率は87%・・浜岡停止の最大の理由だ。確率計算のプロセスは不明だが、あえて単純計算すると、この1年で起こる確率は2.9%、この一カ月の確率は0.2%だ。原発停止の様々な社会経済的コストを試算するために1カ月かけても、その間に地震が起こる確率は極めて低いはずだ。
— 竹中平蔵 (@HeizoTakenaka) May 9, 2011
「あえて単純計算すると」というところの意図は分からないことは注意したい。ただ、「モンティ・ホール問題」の時は、どのように考えるのか?ということは知りたいが、「確率」に騙されることは多い。
最近、コロナ禍になって、再び、「%」ということを耳にする機会が多くなってきた。今回の話は、統計学に基づくもの。
「おそらく同じであろう」というサンプルから少数回の試行だけをすれば、きっと、「おそらく同じであろう」というサンプルの中の確率を推論することが出来る。
というロジックに基づいている。実証データにおいて、「おそらく同じであろう」ということをどのように検証すれば良いのかという画一的な方法論があるわけではないと個人的には認識している。ただ、個々人にとっては、「統計学」に基づいた「確率」が問題ではない。「かかる」か「かからない」かの問題であり、最近、話題のワクチンの副反応の問題も「出る」か「出ない」かの問題と極端に捉えることも出来なくもない。一人一人が「サイコロ」を振って、「当たり目が出るか出ないか」ということに依存した世界観が嫌だという意見もあってもおかしくないし、いくら統計学に基づいたものであっても、個々人に起こってしまった問題は別問題である。この観点は、哲学者であるマルクス・ガブリエルの著書でも指摘されている。「統計学」に基づきすぎた価値判断ばかりに囚われていると、目の前で起こってしまっている現象に対して対応できなくなる可能性も指摘されている。どうやったら、「%」というものの日常的な感覚を会得できるものだろうか?