July 24, 2020

ラインナップされた道具


「道具」を使う人もいれば、もちろん「道具」を作り出す人もいる。どちらが欠けてもいけないと思う。そのバランスはとても重要で、別に「道具」によって産まれる「新しい思考」や「新しい需要」があるのと同時に、今必要だと思う「道具」もある。使い手と作り手の共作になるのではないか?と思っている。また、皆のためにある「道具」もあれば、その時だけ必要不可欠なパーソナライズされた「道具」もあると思う。その時々によって、「道具」に求められることは変わるし、その使用法も変わってくるであろう。

「道具」の使い方を色んな人から学ぶということは非常に良いと思う。もう少し前のことになってしまったが、とある学生さんから「オンライン授業」の出方というのを教わった。私自身にとってみれば、1つのデバイスの前で1つの授業を見るというのが普通だと思っていたが、彼の道具の使い方は違った。同時に複数の授業を立ち上げて、面白そうなものだけの音声をONにするのだと。そのような発想は自分自身の中には無かったので、早速、自分自身でもやってみた。私の場合、教えてくれた彼とは最大3つまでということが分かったが、自分なりの「道具」の使い方を会得するというのはとても重要だと思う。

ただ、「道具」を作り出そうとしている人にとってみれば、どんな「道具」を作るか?ということが鬼門であろう。以前作っていた「道具」を見ながら、特定の性能だけを磨き上げるという発想もあるであろう。しかし、これだけが「道具」づくりではないと思う。みんなが作りたくなるような「道具」を想像し、創り出すということの方がもっと面白いのではないか?と思う。そうなると、これまでの「道具」との性能比較はしなくても良いではないか?だって、どのような使い方をされるのか?ということに関しては未知数なのだから。だからこそ、「道具」は色々とそろえるのが良いのだと思う。適宜、出くわした問題に応じて「道具」を選択できるように、常に準備し続けられる「道具」を作ることこそ、本当に必要なことなのではないだろうか?

July 20, 2020

道具の使い方

出来ることが増えてくると、必然的に使える「道具(ツール・技術)」も増えてくる。何かあっても、「道具」を使って何とかまとめたりすることが出来るような気になる。しかし、一体、「道具」は我々を守るためだけにあったのであろうか?

最近、コンピュータの歴史を調べる機会が多く、そんな中で「思考のための道具―異端の天才たちはコンピュータに何を求めたか?」およびその update 版?「新 思考のための道具 知性を拡張するためのテクノロジー ― その歴史と未来 」という本に出くわした。丁寧に取材を重ねた形でまとめられた本であり、コンピュータの歴史を知るにはうってつけの本であった。この本のタイトルにあるように、「道具」は「何かの目的のため」になくてはならない。そして、適切な「道具」を選択し、適切に使うことで「道具」の本来の威力を発揮するのであろう。普段の生活の中では、適切な道具を知らず知らずのうちに選択している。少しばかりの要件があり、「メール」を打つ。書くのが面倒だからという理由で「電話」をする。その時々によって、適切な「道具」の選択を知らず知らずのうちにやっている。

ただ、「思考のための道具」をきちんと選択したことがあるだろうか?自分自身の思考を深めるために、どのような「道具」が必要か?ということはあまり考えられていない気がする。しかも、「思考」は自分の体一つで出来ると思うからであろうと思う。自分の体一つで出来るものほどこそ、なかなか体に染みついた習慣を変化させることは難しいと思う。それを助けてくれるのが「道具」なのではないだろうか?どうやったら、自分自身の思考を深めることが出来るのか?を今一度考えてみる良い機会なのかもしれない。

暗号解析機 @ Bletchley Park

July 19, 2020

再び「学ぶ」勇気


今からちょうど1か月前に、「学び」についてのブログを書いた。現在、オンライン授業で様々な観点から「教育体制の再構築」への模索が始まっているように感じる。私自身、このような取り組みは現在のような異常事態において、良い試みなのではないか?と思う。ただ、一方で、「教育のやり方を変える」というコンテクストでは、今までの「授業の仕方」や「教科書の内容」が悪者扱いされるケースも多い。単純に比較をすることで、「教育体制の再構築」に関する論点を明確化しやすいという反面、今までの「授業の仕方」や「教科書の内容」そのものの評価というのがきちんとされているのか疑わしい。私個人としては、これまでになされてきた「教育」そのものが悪かったのか?と思うと、少なくとも私が受けてきた教育はそんなに悪くなかったのではないか?と思っている。私の立場に一番近い、大学の授業を例に、初年次くらいを想定した「授業」について考察してみたい。
注:私自身は大学教員ではあるものの、授業を担当しているわけではないことに注意されたい。

大学の初年次の「授業」内容は、何となく変わり映えのしないものが多いように感じる。特に、所謂、理系と呼ばれる学問を学ぶ場合、「知っておくべき」内容というのが非常に多い。大学に入学した頃には全く意味の分からなかった科目も多いと感じる。そして、私の場合は、授業にそのうち出席しなくなって、自分で勉強を始めていた気がする。自分自身を養護するわけではないが、大学での「授業」の意義というのは、「学び」を日常化するというのが大きな使命なのではないか?と思う。歯を磨くのと同じように、意識しなくても「学ぶ」姿勢を身につけることを、それぞれの科目を通じて学んでいるのではないだろうか?その上で、「学ぶ」姿勢が習慣化されていない人においては、半ば強制的に「学ぶ」姿勢を「授業」という定期的にあるものを通じて、習慣づけていくことが出来るのかもしれないと思う。「授業」に出席することが目的ではなくて、「学ぶ」姿勢が身につけば良いのではないだろうか?私自身、ティーチングアシスタントとして大学院生時代に教壇にたっていたが、大学1年生の「基礎物理学演習」という科目の中で、「学ぶ」環境づくり(学びあえる友達をつくる)ということを意識して授業をしていたが、それは「学ぶ」姿勢を習慣づける意義があったのではないか?と思っている。

それでは、(ある意味、つまらない)「科目の内容」についてはどのように考えるべきなのだろうか?学部の前期課程についての「教育内容」というのは、私個人の感想では、授業を受けたその時点では意味は分からないかもしれないけど、将来、何かで困った時に、「戻ってこられる」ポイントを作ることなのだと思う。私自身も論文執筆過程で、学部の授業で習ったことが分かっていなかったと思い、「線形代数」や「微分積分」の1年生向け教科書を復習したりしたことがある。(というより、そんなことが頻繁である。)「力学」や「電磁気学」を何度勉強しても、新しい発見があるように思えるし、様々な視点からみると、更に面白く内容を理解できているように思える。ただ、30歳も超えて、今さら大学1年生の「教科書」を手にとり勉強するという姿は何とも恥ずかしい。だからこそ、そこには「学び直す」勇気が必要なんだと思う。

July 1, 2020

「憧れ」の日常化

「憧れの最近接領域」
この言葉は、ロシアの心理学者レフ・ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」を教育のコンテストの中で発展させた同志社女子大学名誉教授の上田信行先生の言葉である。
「あなたがいるから頑張れる」「君と一緒だからもっと上を目指せる」。他者の存在が、自分の可能性を広げていく、そうした希望を込めて、僕はそう呼んだのです。(プレイフル・ラーニング p.83)
とコアなアイディアが書いてあるように思える。私自身、上田先生とは MIT で研究していた時に MIT Media Lab の中でお会いした。フットワークの軽快さと貫かれている信念のようなものがうまくミックスされ、一緒にお話をしていると、とにかく勉強になるし、楽しい。


一方で、「憧れ」が「憧れのまま」ではないだろうか?私自身、MITに行き、ボストンに住む前の「アメリカ」と住んだ後の「アメリカ」のイメージは180度変わってしまったというくらい変わっている。私自身は、「アメリカへの憧れ」はあまり無かったが、「海外に住むことへの憧れ」はあったように思える。ただ、「住めば都」という諺があるように、「案外、普通」という感覚に陥った。しかし、「憧れの存在」が何か同じ「人間」のやったことではないというような、「近づけない存在」として捉えてしまっているのではないだろうか?そんな感覚に陥っていることはないだろうか?たまに、「教科書の人」と言われている過去の偉大なる研究者が「天才的」に描写されることがあるが、「偉大なる業績を残した研究者」も案外、人間味があるということは伝記を通じて学んだり、実際に生きているのであれば、会ってみたりすると分かる。

「見えないもの・見ていないものを盲目的に憧れる」ということは、何となく物事の本質を表している気がしてならない。