July 20, 2020

道具の使い方

出来ることが増えてくると、必然的に使える「道具(ツール・技術)」も増えてくる。何かあっても、「道具」を使って何とかまとめたりすることが出来るような気になる。しかし、一体、「道具」は我々を守るためだけにあったのであろうか?

最近、コンピュータの歴史を調べる機会が多く、そんな中で「思考のための道具―異端の天才たちはコンピュータに何を求めたか?」およびその update 版?「新 思考のための道具 知性を拡張するためのテクノロジー ― その歴史と未来 」という本に出くわした。丁寧に取材を重ねた形でまとめられた本であり、コンピュータの歴史を知るにはうってつけの本であった。この本のタイトルにあるように、「道具」は「何かの目的のため」になくてはならない。そして、適切な「道具」を選択し、適切に使うことで「道具」の本来の威力を発揮するのであろう。普段の生活の中では、適切な道具を知らず知らずのうちに選択している。少しばかりの要件があり、「メール」を打つ。書くのが面倒だからという理由で「電話」をする。その時々によって、適切な「道具」の選択を知らず知らずのうちにやっている。

ただ、「思考のための道具」をきちんと選択したことがあるだろうか?自分自身の思考を深めるために、どのような「道具」が必要か?ということはあまり考えられていない気がする。しかも、「思考」は自分の体一つで出来ると思うからであろうと思う。自分の体一つで出来るものほどこそ、なかなか体に染みついた習慣を変化させることは難しいと思う。それを助けてくれるのが「道具」なのではないだろうか?どうやったら、自分自身の思考を深めることが出来るのか?を今一度考えてみる良い機会なのかもしれない。

暗号解析機 @ Bletchley Park

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