June 19, 2020

「学び」という日常

この世には、失敗もなければ偶然もない。すべての出来事は、私たちに与えられた恵み、何かを学ぶ機会なのだ。

エリザベス キュープラー ロスという精神科医の格言である。今回の COVID-19 対策での在宅勤務や在宅学習は、色々なことを一時的に機能をストップさせたり、低下させて、普段考えないことを考える時間がとれた方も多かったのではないかと思う。

私自身、普段ではなかなか出来なかった自分自身と向き合う時間が増え、雑談に代わるものとして、毎日、何かしらの本を読み、こんな状況だけど、色んなことを勉強できたと思っている。

また、日々、「学びを止めるな」というスローガンのもと、「教育」に注目が集まっていたのも事実のように思える。オンライン化できる部分はして、「学ぶ機会」をというものも多かったが、最終的にはどのようなことを「学んで」欲しいのだろうか?

「学ぶ」という事は、学校に行き授業を受けることでも、友達と話すことでも、そのあたりを散歩している時でも出来る。日常生活から仕事をしている時まで、「学び」の機会は落ちている気がする。それを「学ぶ」か「学ばない」かを判断するのが自分自身であるということだけなのではないか?そうすれば、「学べない」時はきっとないだろう。ただ一方で、何かをやっていこうとする上で、「学ばなければならないこと」ということはあるであろう。そのような「学ぶ機会」は最低限提供されていなければならないのではないだろうか?

コロナ禍において、「大学の役割」とは何だろうか?ということを考える機会は多くなったような気がする。また、そのようなオンラインシンポジウムなども開催されるようなことが多くなったように思える(ただ、目にする機会が増えただけかもしれないが)。「学び」が日常化すれば、決して、新しいこと(研究分野)を勉強しようという抵抗もなくなるのではないだろうか。「学ぶ日常」をトレーニングする場として「授業」というのは機能している部分があるのではないだろうか?

June 10, 2020

「言葉」にする弱み

言わぬが花

という諺は、「言わない」ことに対する美学が詰まっている。

研究者の最終的なアウトプット形態は今も昔も変わらず、「論文」と言われる「紙」ベースのものに「言葉」を紡ぐことである。メディアアートなどの「作品」を実際に展示するようなアウトプットの仕方に対する模索も続いているように感じられる。だがしかし、このように「作品」を展示するものを良しとしている学術領域でさえ、結局のところ、「研究者の言葉」で書かれた「論文」で審査されている。論文に書かれたことを重視する研究者にとって、「言葉の重み」を感じることは良くある。このあたり考えは、「異化の勧め」のポストに纏めてある。

一方で、直接的に「言わない」「言葉にしない」というのは大きな力があるのだと感じることもある。COVID-19 の緊急事態宣言で再び取り上げられるようになった「日常」という言葉ではあるが、「日々考え続けていること」「日々やっていること」は当たり前になりすぎていて、「言葉」にしない。最も、「言葉」にはしないけど、皆、同じことを考えながら行っているという集団は、「言葉」にするよりも強固なものを感じる。

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私は昔、ボストンに住んでいた。ボストンに行くことになった経緯は突発的なことが重なっていったことではあるが、アメリカに住んでみる前までは、「アメリカに住むのは嫌だな」と正直思っていた。その理由は単純であった。

The United States is the number one. 

という考え方が嫌いだったからである。確かに統計的なデータを見れば、当時、アメリカという超大国は「ナンバーワン」であることが多い。ただ、「皆まで言うな」と思っていた(というより、今でもそう思っている)。実際、ボストンに暮らし始めてみると、先の考え方はアメリカの表面的な側面を捉えているに過ぎないということを感じることが多かった。実際に、先の考え方を表現している場面に出くわすのは、大統領選か新しくアメリカに来た人と会った時に「何故、アメリカに来たのですか?」という質問の答えの時くらいで、日々、暮らしていく中で「The United States is the number one.」という言葉を聞いたことはほとんどなかったのではないかと思う。また、アメリカは何でもかんでも「言わない」といけないと誤解されることも多いが、何でもかんでも「言えば」いいというものではないということを知った。こうして、ボストンを去る頃には、「ボストンはまた戻ってきたいと思う場所」になっていた。あれから10年ほどが経ち、アメリカは様変わりしてしまったと感じる日々も多いが、「言葉」にしていない「強さ」があるのだろうと思っている。

June 1, 2020

新しい時代のアナログとは?

今年度より京都大学情報学研究科の研究科長をなさっている河原達也さんが書かれた「COVID-19 パンデミック下における情報学の展開」を読んだ。オンライン時代の先陣をいくと言って過言ではない「情報学研究」の視点から、COVID-19 パンデミック後の世界観までを描いている見事な論考であると思う。

このパンデミックの前まで AI ブームと言われていましたが、感染の動向や感染者の症状を予測する AI も、どういう治療をすればよいか判断する AI も開発されていません。しいて言えば、感染者の行動履歴を追跡しておいて、濃厚接触者を同定するソフトはありますが、国家権力が強くない国では運用が困難です。これほど世界中に大量の事例サンプルがあるにも関わらず、専門家の直観で判断されているように思われます(それを否定するものではありません)。

この部分が私の最も賛同できる部分である。現在の「情報技術」の限界について、内部の専門家の意見から発せられたという意味も重要である。だからこそ、今後、「ローマは1日して成らず」という諺があるように、しっかりとした準備を行っていけば「情報学が貢献出来る可能性」があるという重要なメッセージがこめられていると私には思う。

しかし、「情報」というと「デジタル」な事を思い浮かべることが多い。私自身の「情報学」の理解では、インプットとアウトプットの関係性に対して、中身をブラックボックスにしたまま「定量的な尺度」を与える学問なのだと思っている。「データ圧縮の限界(者オノンエントロピーの起源)」「通信容量の限界(通信路符号化定理)」など、情報科学の基礎と知られるものは、「「情報」とは何か?」ということを問題にするよりも、「定量的に表現出来る情報」とは何か?ということを考えていたように思える。個人的には恥ずべきことであるが、情報科学の基礎をきちんと勉強したのは大学院卒業以後のことである。マクスウェルの悪魔に関する論文を一緒に執筆している際にシャノンの原論文を読んで勉強した。

一方で、「情報社会」の基盤を支えているのは「アナログ」の要素抜きでは成り立たない。我々が取り扱える部分(インターフェイス)はデジタル仕様になっていても、最終的には「アナログ」な部分に支えられている。近年、「ポストデジタル」時代を想像する本が増えてきたように思える。例えば、「アナログの逆襲」という本の中では、「アナログ的な体験」の重要性について述べている。また、そのような具体的な取り組みに関して紹介されている。一方で、「アフターデジタル」で主に展開されているように「極限まで」オンライン化していく世界像を描いている本もある。そんな中でも「アナログ的思考」が若干垣間見える部分があって面白い。自粛期間で「繋がっていない」苦しさを感じる機会も多かったが、一方で、自分自身を見つめ直す良い時間であったように思える。

何かと繋がっているよりも、身体的に感じられる方が重要なのではないか?

ということに気づいた2ヶ月間であった。今までの研究活動を振り返ってみると、「地に足のついた」研究に憧れを感じる。きっとこれも「アナログ回帰」の一端なのかもしれない。