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2022年2月5日

unmeets

久しぶりにブログを書くことにした。オミクロン株 (SARS-CoV-2の変異株B.1.1.529系統) における新型コロナウィルスの影響が猛威を奮う前、奈良・吉野「neomuseum」(同志社女子大学の上田信行先生のおつくりになったワークショップ専門ミュージアム)で「unmeets2022(アンミーツ2022)」というイベントが計画され、参加する予定にしていた。

このイベントは、どちらも教育を専門とする専門家である同志社女子大学におられた上田信行先生と現在は立教大学に異動された中原淳先生の共著で書かれた「プレイフル・ラーニング」という本が出版されてから10年という節目の年に企画された企画であった。

上田信行先生とは、私自身がMITに留学していた時に同時期にMITメディアラボにいらっしゃっていた先生で、毎回、異種交流戦での会話を楽しんでいた記憶がある。帰国後も、私を同志社女子大学のゼミに参加させてもらったり、いきなり、「旅する neomuseum」という Facebook ライブ限定のラジオ配信イベントにゲストとして出させてもらったり、更には、「場のデザイン」というコンセプトで様々な建築家の方々と交流があり、その現場に参加させていただりと、非常に楽しい時間を過ごさせてもらっている。ワークショップのデザイナーと呼ぶべき上田信行先生は、日々違う仕掛けが必ず用意されていて、毎回、最初は多少なりとも不安になるものであるが、その日が終わった時には言い表しようがない達成感に満ち溢れている。

何かの機会に見つけた今回の「unmeets2022」のイベント。「会うこと」の意味を考えるというワークショップで非常にテーマが興味深かったこと、更には、まだ行ったことのない奈良・吉野の地へ出向いてみたいと思い、参加申し込みをしたが、見事にオミクロン株の拡大のためにイベント自体は延期。代わりにオンラインイベントを開催することになった。そこには、対面イベントでは感じることが出来なかった「オンライン上で会う」ためのヒントが様々に隠されいたように思える。

まず、事前準備。私が2008年3月に Michael Nielsen という業界のスター研究者がトロントで一般の人も巻き込んだイベントをするということで、トロントの街に初めて行きたいということもあって、申し込んだ「SciBarCamp @ U Toronto」というイベント。私は当時幸いなことに Michael Nielsen のオフィスがあった Perimeter Institute for Theoretical Physics というトロントから少し離れた Waterloo というカナダの小さな田舎街に滞在していた。そこで、イベントの準備をしている Michael Nielsen に出会い、どうしてこんなイベントをやっているのか?更には、どのような事前準備が必要なのか?ということを学んだ。そこで、出会ったのが会議のプログラムを事前に全く決めない Unconference 形式というワークショップ形式であった。当時の私は、今よりも英語で表現するのが非常に難しく、色々と苦労することがあったが、1日の最後にパブで行われる組織委員だけのミーティングに参加して、翌日のワークショップがどのようなものになるのか?ということを検討していた。それは事前にワークショップ参加者が、「これだ」と思う提案だけを考えてきて、プログラムは参加者みんなの合議で決めていくというもので、非常に斬新的であった。この話をMITで上田信行先生にしたところ、即、このワークショップ形式を検討していただいたようで、2011年に「REMIX2011@neomuseum」というイベントでコンセプトを採用していただいたように思える。当時、私自身は吉野でのイベントには参加していなかったが、先の「プレイフル・ラーニング」の本の中でイベントの詳細は紹介されている。

そのオンライン版。どうなるのだろうと思っていたら、事前に配れた「ミッションカード」。当時のイベントのイラストを基にして描かれたもので、統一感があり、更には、「自己紹介」から「トークTシャツのロゴ」、そして「トークテーマ」などなど、様々に準備をしなければならないことがあった。自己紹介するだけでも面白くなり、Facebook Group 上での見えない繋がりが繋がりを呼び、大変ビックリしていた。また、親子での参加者や10年前のイベント参加者からの繋がりなど、多種多様で、「繋がっていそうなのだけど、繋がっていなかった」という感覚がイベントが始まる前に得られたのが大きい。

そして、事前に送付されてきた贈り物。「Tシャツ」「メッセージボード(ホワイトボードタイプ)」「お茶」「チョコレート」と実に参加者の一体感を出すにはうってつけのアイテムだった。オンラインイベントの参加条件は、ドレスコードが「送れてきたTシャツを着ること」であったため、皆、同じTシャツを来て、イベントに参加することが出来た。場は共有できなくても、アイテムを共有することで一体感が高まるのだなと感じた。

更に、オンラインイベントがスタート。ウォーミングアップとして、みんなで一緒に「ダンス」することから始まる。夏休みに毎朝、ラジオ体操をやっていた私にとってみれば、その妙な一体感が好きであったが、それと似た疑似体験をすることが出来た。そして、ブレイクアウトルームに分かれて、2人っきりでの自己紹介。2分間で喋らなければならないから、強制的に喋るようになるし、とにかくセット数が多い。今回は8回行うと、参加者同士で2回目ましての人が現れる。こういう偶然も面白かった。個々の意識をとがらせる時間と全体で場を共有する時間とが見事に分かれていて、非常に面白かった。何から何まで初めての試みを運営スタッフ自体も楽しみながらやっていくことは並大抵のことではなかったと思うが、参加していて純粋に楽しかった。

そして、最後にきちんと「リフレクション」があった。そして、出来会ったのが特別な雑誌「un」。準備のところからイベント中の風景、イベント後のリフレクションまで実に細部にこだわられたものであった。「なつかしさ」もありつつも、どこかで「次も」と思わせる仕掛けが満載であったなと思っている。

オンラインでもオフラインでも、気持ちを一つに出来る場の存在というのはとっても重要だと思ったし、更には意見を真剣にぶつけあわせるということの大切さを改めて感じた。具体的に明日行動できることがあるわけではないと思うが、こういうものの積み重ねによって学びが一つ一つ昇華していくのだろうと思っている。

2021年5月16日

「大学教員・先輩が歩んだ道」

一度は半分以上の授業が対面となり、賑わいをみせていたキャンパスが、今ではどんどん静けさを取り戻しているようになった。そんな議論が始まった4月24日(土)の夜に何か私にも出来ることはないのだろうか?ということで、Golden Week 特別企画と題して、「大学教員・先輩が歩んだ道」という連続セミナーイベントを企画した。最初に思い浮かんだのは、現在、大学で教えている学部1年生。折角、大学での勉強を楽しみにしてきた学生さんたちが、新型コロナウィルスという未知なる社会現象と対峙しなければならず、右往左往してしまっている姿はさすがに何か出来るのではないか?と考えた。セミナーシリーズのスピーカーは私の独断と偏見で選んだもので、「みんな違って、それでいい」というメッセージが何とか伝われば良いかな?という人選にしたつもりだ。すべて自分が築き上げてきた人脈で、今回のスピーカー陣があっという間に決まった。今回、協力できなかった方を含め、様々な方のご協力のもと、今回のスピーカーを集めることが出来たのだと思っている。この場を借りて感謝したい。更に、休憩中に何も「シーン」としているのが嫌だったので、メンバーの一人が友達で、最近インストルメントを中心に活動を始めた 陽kage の楽曲を使用させていただいた。また、事前に Zoom の接続チェックを友達としたり、友達に恵まれたなぁ。。。と思った2日間だったと思う。

一方、当初は Zoom のブレイクアウトルーム機能を使って、遠く離れた友達と仲良くなろうという企画を予定していたが、時間もなくて一切できなかった。こういうオンライン上での出会い場を創出する工夫は出来なかったと感じている。この点は反省しなければならない点だと思う。もし、ご覧いただいて、感想等ありましたら Google Form 上から投稿していただければと思う。

個人的には非常に密度の濃い2日間で、ドップリ疲れた。オンライン授業を受けている学生さんたちは、日々知らないことが出てくる授業を特に1年生などは朝から夕方まで受けていると思うと、ゾッとする。2日間で辛いのだから、週5日も真剣に人の話を聞き続けるのは難しいだろう。そんな中、日々の授業は続いていく。一大学教員として、この状況の中で何をすべきかということを考えさせられる。そんな中、本セミナーシリーズが皆さんの何かしらのヒント、きっかけになればと思っている。

5月4日(火)

1限目:北川 拓也 w/ 成川 礼, 鹿野 豊 [対談形式]

2限目:登 大遊

3限目:中田 陽介

4限目:髙山 晶子

5月5日(水) 

1限目:平 理一郎 w/ 鹿野 豊 [対談形式]

2限目:成川 礼

3限目:道林 千晶

4限目:高田 修太

2020年8月13日

Alone Together

この言葉は MIT で技術社会論を専門とする認知心理学者のシェリー タークルの書いた本のタイトルである。彼女の講演はインターネット上を検索すれば山ほど出てくる(例えば、TED トーク)。


私は最近、オンライン上の数日間に渡る集中講義を受講してみた。集中講義の内容は私が今勉強してみたい内容であり、非常に楽しいものであった。だが、1日2時間講義の途中に訪れる「10分休憩」の時間は苦痛で仕方なかった。家で一人ポツンと画面越しの前で10分間無言になる。人数が多ければ、なかなか雑談をやる雰囲気にもならない。更には、誰かがしゃべってしまったら、誰かが喋れなくなってしまう。私自身、コンピュータから音楽をかけてみたり、それなりに「寂しくならない」方法を模索してきたつもりである。でも、この焦燥感みたいな感じは何なのだろうか?今のような「ソーシャルディスタンスの確保」が叫ばれている状況においては、オンラインでの講義というのは、Better Solution のような気がしているが、アナログの機能を補完するように設計された「テクノロジー」による「負の側面」はきちんと認識したい。おそらくこれは教育テクノロジー(EduTech) 以外にも言えることなのだろう。先日、少し紹介した「アナログの逆襲」という本の中に、「テクノロジー過信」による「負の側面」に関しては様々な具体例をもって示されている。

また、新型コロナウィルス拡散防止策により、2020年度後半も「オンライン講義」の機会が減ることはないように思える。もちろん、「オンライン講義」によってプラスになった側面も沢山ある。例えば、「いつでも、どこでも」学べる環境というのが、インターネット環境を整えれば実現できることを示してくれたようにも思える。ただし、これは今までの講義の「保管」or「代替」という訳ではなく、「新しい教育方法」の手段の一つではないだろうか?オンラインの向こう側で、一人一人が「学びたい」という意欲に馳せ、同じ想いを共有している時は良いだろう。ただ、「学びたい」というきっかけを与えてくれる「体験」がどこまで出来るのだろうか?「オンライン講義」の時代に考えなければならない大きな課題なのではないだろうか?と思う。

最後に、戦前のブロードウェイで上映されていた「Flying Colors」の中で歌われていた「Alone Together」の Youtube 楽曲を聞きながら、物思いにふけたいと思う。

2020年6月19日

「学び」という日常

この世には、失敗もなければ偶然もない。すべての出来事は、私たちに与えられた恵み、何かを学ぶ機会なのだ。

エリザベス キュープラー ロスという精神科医の格言である。今回の COVID-19 対策での在宅勤務や在宅学習は、色々なことを一時的に機能をストップさせたり、低下させて、普段考えないことを考える時間がとれた方も多かったのではないかと思う。

私自身、普段ではなかなか出来なかった自分自身と向き合う時間が増え、雑談に代わるものとして、毎日、何かしらの本を読み、こんな状況だけど、色んなことを勉強できたと思っている。

また、日々、「学びを止めるな」というスローガンのもと、「教育」に注目が集まっていたのも事実のように思える。オンライン化できる部分はして、「学ぶ機会」をというものも多かったが、最終的にはどのようなことを「学んで」欲しいのだろうか?

「学ぶ」という事は、学校に行き授業を受けることでも、友達と話すことでも、そのあたりを散歩している時でも出来る。日常生活から仕事をしている時まで、「学び」の機会は落ちている気がする。それを「学ぶ」か「学ばない」かを判断するのが自分自身であるということだけなのではないか?そうすれば、「学べない」時はきっとないだろう。ただ一方で、何かをやっていこうとする上で、「学ばなければならないこと」ということはあるであろう。そのような「学ぶ機会」は最低限提供されていなければならないのではないだろうか?

コロナ禍において、「大学の役割」とは何だろうか?ということを考える機会は多くなったような気がする。また、そのようなオンラインシンポジウムなども開催されるようなことが多くなったように思える(ただ、目にする機会が増えただけかもしれないが)。「学び」が日常化すれば、決して、新しいこと(研究分野)を勉強しようという抵抗もなくなるのではないだろうか。「学ぶ日常」をトレーニングする場として「授業」というのは機能している部分があるのではないだろうか?

2020年6月10日

「言葉」にする弱み

言わぬが花

という諺は、「言わない」ことに対する美学が詰まっている。

研究者の最終的なアウトプット形態は今も昔も変わらず、「論文」と言われる「紙」ベースのものに「言葉」を紡ぐことである。メディアアートなどの「作品」を実際に展示するようなアウトプットの仕方に対する模索も続いているように感じられる。だがしかし、このように「作品」を展示するものを良しとしている学術領域でさえ、結局のところ、「研究者の言葉」で書かれた「論文」で審査されている。論文に書かれたことを重視する研究者にとって、「言葉の重み」を感じることは良くある。このあたり考えは、「異化の勧め」のポストに纏めてある。

一方で、直接的に「言わない」「言葉にしない」というのは大きな力があるのだと感じることもある。COVID-19 の緊急事態宣言で再び取り上げられるようになった「日常」という言葉ではあるが、「日々考え続けていること」「日々やっていること」は当たり前になりすぎていて、「言葉」にしない。最も、「言葉」にはしないけど、皆、同じことを考えながら行っているという集団は、「言葉」にするよりも強固なものを感じる。

提供

私は昔、ボストンに住んでいた。ボストンに行くことになった経緯は突発的なことが重なっていったことではあるが、アメリカに住んでみる前までは、「アメリカに住むのは嫌だな」と正直思っていた。その理由は単純であった。

The United States is the number one. 

という考え方が嫌いだったからである。確かに統計的なデータを見れば、当時、アメリカという超大国は「ナンバーワン」であることが多い。ただ、「皆まで言うな」と思っていた(というより、今でもそう思っている)。実際、ボストンに暮らし始めてみると、先の考え方はアメリカの表面的な側面を捉えているに過ぎないということを感じることが多かった。実際に、先の考え方を表現している場面に出くわすのは、大統領選か新しくアメリカに来た人と会った時に「何故、アメリカに来たのですか?」という質問の答えの時くらいで、日々、暮らしていく中で「The United States is the number one.」という言葉を聞いたことはほとんどなかったのではないかと思う。また、アメリカは何でもかんでも「言わない」といけないと誤解されることも多いが、何でもかんでも「言えば」いいというものではないということを知った。こうして、ボストンを去る頃には、「ボストンはまた戻ってきたいと思う場所」になっていた。あれから10年ほどが経ち、アメリカは様変わりしてしまったと感じる日々も多いが、「言葉」にしていない「強さ」があるのだろうと思っている。

2020年6月1日

新しい時代のアナログとは?

今年度より京都大学情報学研究科の研究科長をなさっている河原達也さんが書かれた「COVID-19 パンデミック下における情報学の展開」を読んだ。オンライン時代の先陣をいくと言って過言ではない「情報学研究」の視点から、COVID-19 パンデミック後の世界観までを描いている見事な論考であると思う。

このパンデミックの前まで AI ブームと言われていましたが、感染の動向や感染者の症状を予測する AI も、どういう治療をすればよいか判断する AI も開発されていません。しいて言えば、感染者の行動履歴を追跡しておいて、濃厚接触者を同定するソフトはありますが、国家権力が強くない国では運用が困難です。これほど世界中に大量の事例サンプルがあるにも関わらず、専門家の直観で判断されているように思われます(それを否定するものではありません)。

この部分が私の最も賛同できる部分である。現在の「情報技術」の限界について、内部の専門家の意見から発せられたという意味も重要である。だからこそ、今後、「ローマは1日して成らず」という諺があるように、しっかりとした準備を行っていけば「情報学が貢献出来る可能性」があるという重要なメッセージがこめられていると私には思う。

しかし、「情報」というと「デジタル」な事を思い浮かべることが多い。私自身の「情報学」の理解では、インプットとアウトプットの関係性に対して、中身をブラックボックスにしたまま「定量的な尺度」を与える学問なのだと思っている。「データ圧縮の限界(者オノンエントロピーの起源)」「通信容量の限界(通信路符号化定理)」など、情報科学の基礎と知られるものは、「「情報」とは何か?」ということを問題にするよりも、「定量的に表現出来る情報」とは何か?ということを考えていたように思える。個人的には恥ずべきことであるが、情報科学の基礎をきちんと勉強したのは大学院卒業以後のことである。マクスウェルの悪魔に関する論文を一緒に執筆している際にシャノンの原論文を読んで勉強した。

一方で、「情報社会」の基盤を支えているのは「アナログ」の要素抜きでは成り立たない。我々が取り扱える部分(インターフェイス)はデジタル仕様になっていても、最終的には「アナログ」な部分に支えられている。近年、「ポストデジタル」時代を想像する本が増えてきたように思える。例えば、「アナログの逆襲」という本の中では、「アナログ的な体験」の重要性について述べている。また、そのような具体的な取り組みに関して紹介されている。一方で、「アフターデジタル」で主に展開されているように「極限まで」オンライン化していく世界像を描いている本もある。そんな中でも「アナログ的思考」が若干垣間見える部分があって面白い。自粛期間で「繋がっていない」苦しさを感じる機会も多かったが、一方で、自分自身を見つめ直す良い時間であったように思える。

何かと繋がっているよりも、身体的に感じられる方が重要なのではないか?

ということに気づいた2ヶ月間であった。今までの研究活動を振り返ってみると、「地に足のついた」研究に憧れを感じる。きっとこれも「アナログ回帰」の一端なのかもしれない。


2020年5月30日

グッドハートの法則


あまり聞き馴染みのない法則であると思う。私がこの法則を知ったのは、昨年、GigaScience という雑誌に掲載された「学術論文統計」における分析がなされた論文のタイトルに書いてあったからである。論文の主旨はメタ分析科学の論文で非常に読み応えがあると同時に様々なことについて考えさせられた。グッドハートの法則とは、

Any observed statistical regularity will tend to collapse once pressure is placed upon it for control purposes.

という経済学の経験法則であり、ルーカス批判キャンベルの法則とも類似性があるということが知られているらしいがあまり詳しくは知らない。

ただ、これを我々がやっている自然科学研究に適用みようとする。自然現象の本質に迫ろうとすればするほど、コントロールされた状態に自然現象を押し込めたくなる。たまにコントロールサイエンスと呼ばれる。一方で、自然現象を知ろうとするには非常に良い手法な気がしており、「対象群」と「コントロール群」との差において、示したい「概念」「法則性」をサポートする結果はどの科学技術分野にもある研究スタイルだと思っている。しかし、コントロールサイエンスが極限まで行き過ぎると、結局のところ、「自然の何を理解したかったのか?」ということが分からなくなってしまう。そんな状態に陥ってしまった学問分野は少し考えただけでも沢山浮かんでくる。自然の「ありのまま」の姿を浮き彫りにしたいはずであった私が専門とする「計測科学」においても、同じようなことにならないように気をつけなければならない。

コロナ禍において顕著になってきたことのように思えるが、様々なことは「統計データ」を見て判断されているように感じることがあるし、「統計データ」だけを見て賛否を明らかにしなければならない状況というのが沢山あるように思える。ただ一方で「統計的な指標だけ」に頼った判断というのは、愚かな結果を生じやすいというのが歴史の教えてくれることではないだろうか?

2020年5月27日

結果の不平等 / 機会の平等

r (= 資本収益率) > g (= 経済成長率)
 
一時、話題になったフランスの経済学者であるトマ・ピケティの「21世紀の資本」の最終的な結論である。200年以上の膨大な資産や所得のデータを積み上げて分析した(使用している統計データは全てウェブサイトに公開されている)ということで、分量が極めて多く、正直、書斎のインテリアとしての「本」の価値があるような本だと思われる。一方で、専門的な見地から賛否様々であるということはウェブサーフィンをすればすぐに分かることであるが、「経済統計データを分析した」という評価には値するのだと思う。ただし、上記の不等式は賛否はあれど、「結果の不平等」さに関して言及しているのだと理解している。誰かが評価したり、評価基準を作ってしまう以上、「結果の不平等」というのは解消されないのだと思う。なので、「結果」だけを見てしまうというのは、いかがなものか?という論調が出てくるのも理解出来る。

COVID-19 の緊急事態宣言は先日解除されたが、未だに多くの教育機関では同じような授業スタイルが展開出来なく、オンライン授業に移行したり、それが様々な制約のために出来なかったりしているのが現状だと思う。また、「9月入学」の議論が再燃し、その議論の過程の中でも著名になった中室牧子さんの書かれた「「学力」の経済学」においても「統計的なデータ(=結果)」から判断すべきであるということが本質的には書かれており、5年前くらいから「データサイエンス」の重要性が様々な分野においても言われ続けてきたように思える。

ただ、緊急事態の中で「結果(=統計データ)」に関して妙に敏感になるのは何故なのだろうか?原発事故の際の放射線量、COVID-19 のPCR検査の陽性者数、どちらもハードウェアエラーが含まれているにも関わらず、「統計的なデータ」で判断されてしまう。このあたりは私が習ったような単純な「マクロ経済学」の知識だけでは太刀打ちできないのだと思うし、「行動心理学」や「社会心理学」といったパーソナルな部分との関連性の中に答えが見いだされることが多いように感じている。

一方、「結果の不平等」さ故に、「機会の平等」が保たれていないと判断するのは拙速な気がする。この「機会の平等」は特に「教育」において重要視される傾向にあると思う。コロナ時代のオンライン教育実施論で話題にのぼっている「教育格差」が拡がってしまうという論調は、本来は、様々な制約から「機会の不平等」の議論であるにもかかわらず、「結果の不平等」に目がいってしまっていると思う。また、「教育」の次は「ダイバーシティー」に関する議論であるように思える。これは、とある国際会議において「東京宣言」と呼ばれる文章の策定に関わった際に勉強をした 国連持続可能な開発目標 (SDGs) の目標の中にも組み込まれていると個人的には理解している。また、「No one left behind」というコンセプトは、「機会の平等」についての担保をしようという心がけなのだと理解している。ただ、「機会の平等」は統計的な指標では一概には測りにくいが故に、どのように品質を保証していけば良いかが分かりにくいのも問題である。また、全てのことで「機会の平等」が担保されるべきのだろうか?という論点もあるであろう。何を「最低限」担保しなければならない「機会の平等」であるのかを今一度、考えてみる機会になっているのだと思う。


2020年5月22日

グローカル

Think Globally Act Locally 
「地球規模で考えて、地域で行動しよう」

COVID-19 の新型コロナウィルス対策では、「感染症」という地球規模の拡大を考えて、経済行動などは厳しく制限され、「水際対策」などといった国境移動の制限などにより、実質的に「地域で行動」せざるを得なくなっている。奇しくも、国連が定めた持続可能な開発目標(SDGs) の目標の中にも、

3.3 2030 年までに、エイズ、結核、マラリア及び顧みられない熱帯病といった伝染病を根絶するとともに肝炎、水系感染症及びその他の感染症に対処する。

とあり、我々の目指した目標が何だったのだろうか?ということが問われている。本来、グローカル (Glocal) 人材とは、最初にあげたコンセプトを体現できる人間であったように思う。この COVID-19 の自粛生活は Glocal 状況を強制的に作り出してしまったのではないか?と思っている。

日本においては関東地域以外においては緊急事態宣言が解除されてきた中で「新しい生活様式」が提唱され、今後、「変わらなければならないもの」、「変わっていくもの」、「変わらないもの」に大別されていくのであろう。確かに緊急事態宣言下や強制ロックダウンをしている中では、COVID-19拡散防止という地球全体の課題に対して Act Locally を体現してきたのだと思う。

リモートワークでの仕事が慣れてきた皆さんは「オンライン会議」が増えてきたのだと思います。ただ、テクノロジーで乗り越えられない壁がいくつかあると思っている。今回、顕著になってきたのは「時差」の問題である。

「科学の普遍性」があると思われる研究分野においては、本来的に学術が出来る場所は関係ないと思われている。もちろん研究環境によって成果の出やすいもの、出にくいものがあるのは事実だと思うが、研究者自身の能力・努力・運にもよるところが多いと思う。こういう事態になると、「オンライン会議」は様々なところで立ち上がり、一部ではあるが、「オンラインセミナー」のまとめサイトなるものが立ち上がっている。気軽に出席出来るという利点や「録画機能」を使い、後で最新の研究動向をチェック出来る機会も増えてきた。

一方で、「セミナーの開始時間」はあまり変わることがない。研究者人口が多いのか分からないが、きちんとオンラインセミナーが整備されているのは良くも悪くも「欧米中心」である。そのため、開始時間が日本時間で深夜になることは日常的である。そのため、リアルタイムに出席している日本人研究者をあまり見かけることがない。これ自体は仕方ないことであるが、欧米中心で学術動向が依然として推移している証左にも思える。科学技術大国になりつつある「中国」など日本との時差が小さな範囲で学術的にもアクティブなところが沢山あると思う。

歴史的な経緯があるのは事実であるが、「地政学的」な利点を最大限に活かすことが出来、真の「グローカル」人材になれる日は来るのだろうか?

2020年5月8日

データダイエット

データダイエットへの協力のお願い:遠隔授業を主催される先生方へ(イラスト版) 出典:国立情報学研究所

このネーミングは、4月からの大学等遠隔授業に関する取組状況共有サイバーシンポジウム実行委員会という名義で「お願い」という形で出されました。その一行目は原理原則だけど、忘れやすいことを言っています。

情報通信回線は全国民が共有する有限の資源です。

「有限の資源」であるということを言っているのは、当たり前ですが非常に重要だと思います。「どれくらい出来るのか?」ということを突き詰めていく学問が、個人的には「情報科学」という学問分野になるのだと思います。通信容量に関しては、「情報科学の父」であるクロード・シャノンによって定式化されました。現在では、「シャノンの通信路符号化定理」と呼ばれており、理論的な限界値を「シャノン限界」と呼んだりしています。ある種の「情報」というものに対する「限界」を定めていくのが、情報科学の面白い点だと個人的には思っています。なかなか準備の進まなかった「授業のオンライン化」に対して、今回の「コロナ自粛」では一気にそのオンラインプラットフォームを活用していかなければならない状態になっています。すると、「オンライン上での渋滞」というのが発生し、「インターネット」という一見するとバーチャルな空間だったものが、きちんと「物理的な」(今回だったら、ネットワークケーブル)というものによって律速させられているというのを教えてくれています。個人的な理解では、量子力学という「物理法則」を用いて「情報科学」の本質だと思っている「定量的な限界」というものを示していくということが「量子情報科学」と呼ばれる学問分野なのだと思っています。私は、この「量子情報科学」という学問分野の中で研究を行っています。「量子コンピュータ」の開発がブームとなり、たまに分野の概観をするようなアウトリーチ活動を行っていますが、その中で協調させていただいているのは、「量子力学の法則を使って、「計算」の限界」を知る学問が、「量子計算機科学」であるのではないか?とお話しさせていただいております。

では、一体、どれくらいの通信容量が増えているのでしょうか?少し調べてみると、日本国内では大手のNTTコミュニケーションズが「インターネットトラフィックの推移」をまとめていただいています。どの時間帯が良いのかという指針にもなるかもしれません。実際に「実測された生データ」が様々集まってきていますので、今後、このような「生データ」をどのように活用していくのか?ということが重要になるのでははないでしょうかね?

そのような「生データ」やオンライン授業のプラットフォームが形成されている「インターネット空間」は、どのようになっているのでしょうか?その理念を以前教わった時に以下のように教わりました。

インターネットは性善説で出来ている。

ネットワーク攻撃などは目の見えない形になっていますが、「性善説」だからこそ、一部の人たちの「悪さ」みたいなものが目立ってしまうという理念のもと設計されています。インターネットの精神性そのものは、「皆で皆を守る」というものなのかもしれません。この理念こそ、今の新型コロナウィルス対策に必要な根本的な考え方ではないかと思っています。

でも、一方で「出来ないよ」という思われる方もいらっしゃるかもしれません。今回の「ダイエット」というネーミングは非常に素晴らしいと思っています。自分自身を思い返してみても、「自分自身の強い意志」がなければ、ダイエットは出来ません。自分で自分自身を追い込まなければならないからです。そのためには、一定度の「安定」が必要な気がしています。仕事が凄く忙しい時期に「断食ダイエット」など出来ませんし、もし、それでも強行したら倒れてしまいます。「ダイエットも出来る時にしか出来ない」と思うからです。そして、「出来る余裕のある人から」ダイエットしていけば良いのかなと思っています。「データダイエット」も同じです。やっている事例を見て勉強するのは良いと思いますが、「無理のない程度に」データダイエットすることが重要なのではないかと思います。

出来る事を出来るだけ

という精神が重要な気がしてなりません。今後とも無理しない程度にコロナ自粛生活を送っていきたいと思います。

2020年5月4日

教科書依存症

 新型コロナウィルス(COVID-19) 拡散防止のための対策として、緊急事態宣言が出されて早1ヶ月。「巣籠もり生活」と呼ばれる日々を皆さん送っています。私の場合、職場は緊急事態宣言を出されるのと同時にキャンパス閉鎖となり、学部長の許可無しにキャンパス内に入構することが出来なくなりました。学会や研究会・セミナーもほぼオンラインに移行し、すっかりパソコンの前で何かしらのオンラインツールを使ってお仕事をするということに慣れてきました。その一方で、ミーティングの量は減り、時間がとれるようになったので、「今がチャンス」と思い、本業である「研究」が格段に進むとも当初は思っていました。

 だけど、実際に「巣籠もり生活」をしてみると、なかなか思うようにスケジュールが回らず、「失敗もたくさんして」なかなか思うように進まないと思う日々を過ごしています。特に、「巣籠もり生活」=「書き物がたくさん出来る時間」=「論文執筆時間」(論文執筆は、「研究者」ということを仕事をしている人の最終的なアウトプット媒体です。昔も今も変わらないでいることは何故なんだろうと考えされます。)と思って、実際に多くの論文が執筆されていると聞いています。そのうち、「科学計量学」というべき分野の方々から定量的な分析が出てくるかと思いますが、「社会活動」と「研究論文」が密接に関連しているということは科学史の様々な事実から証明されていると思います。私が専門としている「量子力学」の形成にも「鉄鋼業の発展史」という「社会活動」が密接に関わっていたということは言うまでもないですし、更に言えば、山本義隆著「古典力学の形成」「磁力と重力の発見 1巻2巻3巻」、そして「16世紀文化革命 1巻2巻」を読むと、社会的背景があって近代物理学が誕生したということが読み解けます。当時、学問をやられていた人たちはそんな風には思っていなかったと思いますが、ある意味「必然」だったのではないか?と思うような感じに話が構成されているようにさえ感じます。さて、自分自身は論文執筆の「時間」だけは増えたものの、効率は極端に落ち、なかなか進まないという日々。それでは、何故、「論文執筆が進まないか」を考察してみようと思うようになりました。

 キャンパス閉鎖が決まり、その閉鎖開始日の前日、キャンパス外から内側のネットワークにアクセス出来るためのVPNアクセスを点検・整備したりしていました。更には、自分自身が持てるだけの「本」を持って帰ってきました。「巣籠もり生活」は今まで勉強してみたかった分野の本を時間があるので勉強してみようと思い、今まで読んだことがない本を持ってかえってきました。そして、「巣籠もり生活」をしている家には「本棚」がなく、今まで、家では職場で出来なかったことの続きが出来るような体制を組んでいたように思います。そのため、「教科書」など勉強してきたものは基本的には「職場の本棚」にあるということです。このような状況で、一からいざ論文を書いてみようと思うと、なかなか進みません。その理由で私が行き着いたのは
自分自身の研究を一から構成していない
ということでした。これまで10年ちょっと「研究論文」を書いてきました。それぞれに大なり小なり「新しい発見」「新しい知恵」を論文の中に入れ込んできたつもりです。しかし、自分自身のやってきた論文は、「誰かの論文や研究分野の基礎知識のもとに、それに積み上げる形」で研究を行ってきたことに気づかされました。これ自体、別に「研究活動」ということを行う上で当たり前のことではあると多くの「研究者」は賛同してくれますし、問題はないと思うのですが、問題なのは、自分の書こうとしている論文の基礎知識の多くを「教科書」の知識に頼り、自分自身で全てを再構築することが出来ないことでした。つまり、「教科書依存症」。「あの教科書のあのページあたりに書いてある」から確認したいということが多く、その「ちょっとの確認」が出来ないが故に論文執筆が進まなくなっているのではないか?と思うように至りました。一度、自分自身が勉強した「纏まっている」知識である「教科書」(もちろん、間違って書かれている部分もありますが)に自分自身の研究のベース知識を関連させていたのではないか?と分析するようになりました。自分自身の能力の現状をどのように受け止めるべきか、まだ戸惑っている部分がありますが、今後、自分自身の知識の整理の仕方をもう一度見直してみたいと思うようになりました。

2020年5月2日

「何かをするために」~今できることは何か?~

先日、高校の同級生である調布市立多摩川小学校の庄子 寛之先生の呼びかけで始まった「オンライン授業を通してこれからの教育を考えようプロジェクト」(仮)オンラインイベントで参加しました。事のきっかけは単純なことで、COVID19 という新型コロナウィルス対策のために、学校が閉鎖されている状況で、1人の小学校教員の庄子君の想いから始まったイベントだったと聞いています。正直な感想は、小学校のオンライン化はここまで進んだのか!!とビックリしていました。と、同時に様々な制約の中で、まだオンライン授業が始められないというところもありました。生徒さんたちにこういう世の中が激変している状況だけど、「何とかしたい、けど、何が出来るのだろうか?」と必死になっている小学校の先生方には感謝しかないなと思っています。様々な小学校の先生方の実線事例を勉強していくと、オンライン授業を実施するための多くの技術的&制度的課題が存在する一方で、大きな壁は「果たして、私でも出来るだろうか?」というものの壁が存在しているような気がしました。
提供:いらすとや


個人的には「何かをするために」は、それより前に準備が必要であろうと思っています。この事例のオンライン授業を開始するにあたっては、「オンライン授業」のための端末・ネットワークインフラの整備は必須です。大学のオンライン授業でも、wifi ルーターの貸し出しを行ったりするなどして対応に追われている部分もありますが、事前に準備をしていた方が圧倒的に有利だと思います。現在、使われているオンラインプラットフォームの多くも、この自粛期間に入る前に既にあったものを改良しながら使っているのが現状だと思います。 Google ClassroomZoom などのウェブツールは今では必要不可欠になっているのだなと実感しました。同時に、ネットワークインフラを支えている方々の努力で、現在の状況が実現出来ているのだと思います。普段、直接的には「目に見えない仕事」ではありますが、素晴らしい準備をしてきたのだなと思っています。「ローマは一日にしてならず」という諺があると思います。今、それなりにオンライン化が進められているところは有形無形のもの問わず、「準備」がしっかりしていたのだろうと思います。その準備の上で、スタートダッシュが切れたのではないか?と思いました。

では、「準備不足」の状況であった場合には何をすべきなのか?という疑問が沸いてくるのは当然だと思います。目の前で出来る限りの手を尽くして、ダメだったという事例も小学校の先生方には沢山経験されているそうです。今、この自粛期間にすべきことは
「次への準備」
ではないのだろうか?と思います。今から準備しても遅くはないはずです。自粛期間があけた後の「これから」について考える時間であって欲しいなと思っています。「何も出来ない」から「(少し時間はかかってしまうかもしれないけど)何か出来るかもしれない」になると思います。また、「何かしたいのだけど、何もしていない(または、出来ない)」と落ち込んでしまうのは、それまでの準備が足りなかったからだと反省し、今からとりかかれる準備をしっかりすれば良いのだと思っています。個人的には、東日本大震災の時、原発事故が起きて何も出来ませんでした。「大丈夫だと思う?」と聞かれても、自分自身の専門分野ではないので、ハッキリとは答えられませんでした。今回もそうです。私自身は物理学のトレーニングを受けてきましたが、今、現場で起きている感染症のことなどは分かりませんし、他の人たちよりは「論文」を読み解くことが出来るようにトレーニングしてきましたが、それでも今回の「感染症」に対して専門的な意見が言えるほど熟知していません。「直接的にせよ、間接的にせよ、準備をしていればチャンスが回ってくるはず」だと信じることが出来ることこそが、学校で本来学ぶことなのではないか?と思うようになりました。
いずれ皆さんの番は回ってくるはずです。 
それに備えて準備しよう。