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2023年9月30日

群馬大学を退職するにあたり・・・

既にお知らせさせていただいた方もいらっしゃいますが、群馬大学理工学府理工学基盤部門の准教授として、2021年4月1日に着任し、本日をもって退職いたします。初めての地方国立大学に赴任し、更に主に初年次教育に携わってきました。在任中、群馬大学の皆さまには本当にお世話になりました。気持ちよく、スムーズに送り出していただいたことに感謝しております。


様々な大人の事情が重なり、基本的には群馬大学荒牧キャンパス内に研究室は主宰していたものの、研究室配属の学生さんは1人もおりませんでした。更には、インターンシップの学生さんも誰も採用しませんでしたし、リクルートすることもしませんでした。


群馬大学在任中は、まとまったアウトプットがなく、何をしていたのだと言われそうですが、基本的には大量に本を買い込み、黙々と勉強していました。基本的には1人で研究を進めなければなりませんでしたので、何かの研究に本来は没頭するのがセオリーだったと思うのですが、着任した当時、プロジェクト研究から外れて、久々にPIとして研究室を整備することになったので、私の指導教員である細谷暁夫さんが
「定職を得た研究者が胸の高まりも無く、ただ論文の数を増やし、科学研究費を獲得して行くことの方がいいのだろうか?冒験者の大部分は失敗し、ごく少数のものが新しいコンセプトを切ち開くのではないだろうか?私には失敗を覚悟で冒険することが、僥倖によって定職を得た科学者の道徳的義務とさえ思う。」
と定年退職をする際に記事に残していたのを思い出し、ただただ漫然と研究していくことはやめようと思いました。ただ、テニュアトラック制度としての採用であったため、本来は「定職を得た研究者」にはなっていませんでしたが、何かしら新しいことをやっても研究は出来るだろうし、5年の期間中には何か出来るだろうと思いました。

群馬大学在任中にプロジェクトとしては以下のようなもので、今まで研究したことのないものが多かったような気がします。
  • 量子乱数の研究:JSTさきがけ「セキュア量子乱数に基づくハイブリッド量子秘密計算基盤の創出」の研究課題ももとで本来はもっと進めるべきだったと思いますが、研究課題が採択された慶応義塾大学時代とは状況が異なり、思うようには研究が進まなかったと思っています。在任中の2022年のノーベル物理学賞の受賞理由が「ベルの不等式の破れ」であり、「ループホールフリー」のベルの不等式の破れは実証されていますが、更なる研究として「真性乱数」の存在を見破らなければなりません。そのため、まだまだ研究の余地が残されているように思えます。これは今後、引き続き研究をしていきたいなと思っています。
  • 量子品質工学の研究:JSTさきがけ「セキュア量子乱数に基づくハイブリッド量子秘密計算基盤の創出」の研究課題から派生された研究だと思っていて、量子情報技術を発展させる上で重要なコンセプトだったと思います。桐生高等工業学校(現、群馬大学理工学部)出身の田口玄一博士のように品質工学の発展形を目指していました。まだまだ時間がかかるなぁ・・・というのが正直な感想です。
  • 原子核物理と量子情報科学の融合:原子核物理分野で第一原理計算をやられている阿部 喬さん(現、慶応義塾大学量子コンピューティングセンター特任准教授)に学生時代に東工大の研究室で大変お世話になったことをきっかけに原子核物理屋さんと議論していました。理化学研究所にある RIBF を用いた実験プロジェクトに誘われ、あれよあれよという間に一緒に実験を行っていました。まだ何も論文を書いていませんが、そのうち原子核物理と量子情報科学が融合できるような研究が出来たらよいなぁ・・・と思っています。その意味で、量子力学黎明期の発展を支えてきた原子核物理を勉強出来たのはとっても良かったと思っています。この際、初めて組織として関与したかったので、同年代で研究室を主宰していた加田渉准教授(同じく、今日で退職。)と鈴木真粧子准教授に関わっていただきました。また、機器分析センターにはお世話になりまして、特に技術職員の坂本広太さんにはお世話になりました。研究上では群馬大学在任中、一番時間を割いていたかもしれません。笑 それが故に、色んなものとの繋がりが分かってきて、今後に対して、何をしなければならないのかという道筋も見えてきました。
  • 機械学習の応用研究:実験データにこれまで以上に積極的に触れる機会が多くなってきましたので、そのデータ解析手法として機械学習で使われている手法を沢山勉強し、それを応用する際の問題点が何であるのかを調べてきました。物理のような何かを解明していくタイプの研究ではなく、いささか場当たり的な感じもしましたが、純粋な数理的な理論体系を実データに応用していくことの難しさが何であるのかということを実感しました。こんな遊びから生まれた研究論文は2報 (Scientific Reports, Annalen der Physik) まとめられています。
  • 物理教育の研究:ひょんなことがきっかけで、大学の物理教育誌に「はじめての講義」という欄に記事を執筆することになりました。着任当時、まだコロナ禍の真っ只中であったことを良いことに、基本的にはオンライン授業で学ぶ意義を考えたりしていました。教授法も手探りでしたが、予備校でもなく、大学の従来の教育法でもないものに挑戦してきました。そして、模索していく中で、「大学の物理教育は、教育の担い手は研究者で自分自身の研究対象にはデータをとったりと論理的・定量的に分析するためのツールを考えるにも関わらず、教育は感覚的・理念的になってしまうのは何故だろう」と思うようになり、授業アンケートなどを積極的に活用しながら、授業改善を行うというより前に、授業の在り方・教養の在り方を定量的に分析していくことが重要であろうと思うに至りました。認知心理学の知見などを取り込みながら、どういう授業スタイルが教員にも受講している学生にもハッピーな形になりえるのかを「研究しながら」考えていました。
こんなに統一感なく研究が出来たのは、地方国立大学で特定のテーマを決めず、研究室の学生のテーマを考えることなく楽しめたからだなぁ・・・と思っています。本当にメリットだったと思っています。また、基本がオンライン授業であったからこそ、週に1度くらいしかコロナ禍後もオフィスには行かず、引越さなかった家の近所の武蔵小杉オフィスを構えて、日々、色々な試行錯誤を行ってきました。このような体制を許していただいた皆さんには感謝しております。お陰様で、最低限ではありますが、研究は進展したと思っていますし、群馬からどこかに出張することは非常に大変ですが、武蔵小杉からであれば、気楽に出張できました。また、コロナ禍を通じて家のあった元住吉の住民の皆さんと積極的に交流するようになり、私が知らなかった世界を次々と見せてもらいました。結局、慶応義塾大学着任時から住み始めたので、合計5年半住んでいました。商店街文化も根付いていて、元住吉は本当に「住みよい」街でした。ありがとうございます。

また、一概に「地方」と言っても、交通のアクセス状況によって、事情が様々に異なるということも理解でき、統一的な「地方大学の問題」というものは、あまり存在していないのではないか?と思いました。でも、予算が削減されている問題を肌で実感し、新しいことを動き出そうにもゴミが残されたままで出来ない問題があったりと、今まで以上に何をしていくことが良さそうなのか、そして、持続可能なスタイルはどのようなものであるのかということを考えてきました。今まで、国立の研究機関、中央の国立大学、中央の私立大学、地方国立大学と赴任してきましたが、それぞれに問題は山積していますが、それぞれに楽しみながらやってきました。もちろん、今回の群馬大学も非常に楽しくやらせていただいかと思います。ありがとうございました。色々な方々に支えられ、プライベートには色んな事があった期間ではありましたが、楽しめたことには感謝しかありません。ありがとうございました。そして、明日から新しい職場ですが、今後ともよろしくお願いします。

2022年2月5日

unmeets

久しぶりにブログを書くことにした。オミクロン株 (SARS-CoV-2の変異株B.1.1.529系統) における新型コロナウィルスの影響が猛威を奮う前、奈良・吉野「neomuseum」(同志社女子大学の上田信行先生のおつくりになったワークショップ専門ミュージアム)で「unmeets2022(アンミーツ2022)」というイベントが計画され、参加する予定にしていた。

このイベントは、どちらも教育を専門とする専門家である同志社女子大学におられた上田信行先生と現在は立教大学に異動された中原淳先生の共著で書かれた「プレイフル・ラーニング」という本が出版されてから10年という節目の年に企画された企画であった。

上田信行先生とは、私自身がMITに留学していた時に同時期にMITメディアラボにいらっしゃっていた先生で、毎回、異種交流戦での会話を楽しんでいた記憶がある。帰国後も、私を同志社女子大学のゼミに参加させてもらったり、いきなり、「旅する neomuseum」という Facebook ライブ限定のラジオ配信イベントにゲストとして出させてもらったり、更には、「場のデザイン」というコンセプトで様々な建築家の方々と交流があり、その現場に参加させていただりと、非常に楽しい時間を過ごさせてもらっている。ワークショップのデザイナーと呼ぶべき上田信行先生は、日々違う仕掛けが必ず用意されていて、毎回、最初は多少なりとも不安になるものであるが、その日が終わった時には言い表しようがない達成感に満ち溢れている。

何かの機会に見つけた今回の「unmeets2022」のイベント。「会うこと」の意味を考えるというワークショップで非常にテーマが興味深かったこと、更には、まだ行ったことのない奈良・吉野の地へ出向いてみたいと思い、参加申し込みをしたが、見事にオミクロン株の拡大のためにイベント自体は延期。代わりにオンラインイベントを開催することになった。そこには、対面イベントでは感じることが出来なかった「オンライン上で会う」ためのヒントが様々に隠されいたように思える。

まず、事前準備。私が2008年3月に Michael Nielsen という業界のスター研究者がトロントで一般の人も巻き込んだイベントをするということで、トロントの街に初めて行きたいということもあって、申し込んだ「SciBarCamp @ U Toronto」というイベント。私は当時幸いなことに Michael Nielsen のオフィスがあった Perimeter Institute for Theoretical Physics というトロントから少し離れた Waterloo というカナダの小さな田舎街に滞在していた。そこで、イベントの準備をしている Michael Nielsen に出会い、どうしてこんなイベントをやっているのか?更には、どのような事前準備が必要なのか?ということを学んだ。そこで、出会ったのが会議のプログラムを事前に全く決めない Unconference 形式というワークショップ形式であった。当時の私は、今よりも英語で表現するのが非常に難しく、色々と苦労することがあったが、1日の最後にパブで行われる組織委員だけのミーティングに参加して、翌日のワークショップがどのようなものになるのか?ということを検討していた。それは事前にワークショップ参加者が、「これだ」と思う提案だけを考えてきて、プログラムは参加者みんなの合議で決めていくというもので、非常に斬新的であった。この話をMITで上田信行先生にしたところ、即、このワークショップ形式を検討していただいたようで、2011年に「REMIX2011@neomuseum」というイベントでコンセプトを採用していただいたように思える。当時、私自身は吉野でのイベントには参加していなかったが、先の「プレイフル・ラーニング」の本の中でイベントの詳細は紹介されている。

そのオンライン版。どうなるのだろうと思っていたら、事前に配れた「ミッションカード」。当時のイベントのイラストを基にして描かれたもので、統一感があり、更には、「自己紹介」から「トークTシャツのロゴ」、そして「トークテーマ」などなど、様々に準備をしなければならないことがあった。自己紹介するだけでも面白くなり、Facebook Group 上での見えない繋がりが繋がりを呼び、大変ビックリしていた。また、親子での参加者や10年前のイベント参加者からの繋がりなど、多種多様で、「繋がっていそうなのだけど、繋がっていなかった」という感覚がイベントが始まる前に得られたのが大きい。

そして、事前に送付されてきた贈り物。「Tシャツ」「メッセージボード(ホワイトボードタイプ)」「お茶」「チョコレート」と実に参加者の一体感を出すにはうってつけのアイテムだった。オンラインイベントの参加条件は、ドレスコードが「送れてきたTシャツを着ること」であったため、皆、同じTシャツを来て、イベントに参加することが出来た。場は共有できなくても、アイテムを共有することで一体感が高まるのだなと感じた。

更に、オンラインイベントがスタート。ウォーミングアップとして、みんなで一緒に「ダンス」することから始まる。夏休みに毎朝、ラジオ体操をやっていた私にとってみれば、その妙な一体感が好きであったが、それと似た疑似体験をすることが出来た。そして、ブレイクアウトルームに分かれて、2人っきりでの自己紹介。2分間で喋らなければならないから、強制的に喋るようになるし、とにかくセット数が多い。今回は8回行うと、参加者同士で2回目ましての人が現れる。こういう偶然も面白かった。個々の意識をとがらせる時間と全体で場を共有する時間とが見事に分かれていて、非常に面白かった。何から何まで初めての試みを運営スタッフ自体も楽しみながらやっていくことは並大抵のことではなかったと思うが、参加していて純粋に楽しかった。

そして、最後にきちんと「リフレクション」があった。そして、出来会ったのが特別な雑誌「un」。準備のところからイベント中の風景、イベント後のリフレクションまで実に細部にこだわられたものであった。「なつかしさ」もありつつも、どこかで「次も」と思わせる仕掛けが満載であったなと思っている。

オンラインでもオフラインでも、気持ちを一つに出来る場の存在というのはとっても重要だと思ったし、更には意見を真剣にぶつけあわせるということの大切さを改めて感じた。具体的に明日行動できることがあるわけではないと思うが、こういうものの積み重ねによって学びが一つ一つ昇華していくのだろうと思っている。

2021年5月16日

「大学教員・先輩が歩んだ道」

一度は半分以上の授業が対面となり、賑わいをみせていたキャンパスが、今ではどんどん静けさを取り戻しているようになった。そんな議論が始まった4月24日(土)の夜に何か私にも出来ることはないのだろうか?ということで、Golden Week 特別企画と題して、「大学教員・先輩が歩んだ道」という連続セミナーイベントを企画した。最初に思い浮かんだのは、現在、大学で教えている学部1年生。折角、大学での勉強を楽しみにしてきた学生さんたちが、新型コロナウィルスという未知なる社会現象と対峙しなければならず、右往左往してしまっている姿はさすがに何か出来るのではないか?と考えた。セミナーシリーズのスピーカーは私の独断と偏見で選んだもので、「みんな違って、それでいい」というメッセージが何とか伝われば良いかな?という人選にしたつもりだ。すべて自分が築き上げてきた人脈で、今回のスピーカー陣があっという間に決まった。今回、協力できなかった方を含め、様々な方のご協力のもと、今回のスピーカーを集めることが出来たのだと思っている。この場を借りて感謝したい。更に、休憩中に何も「シーン」としているのが嫌だったので、メンバーの一人が友達で、最近インストルメントを中心に活動を始めた 陽kage の楽曲を使用させていただいた。また、事前に Zoom の接続チェックを友達としたり、友達に恵まれたなぁ。。。と思った2日間だったと思う。

一方、当初は Zoom のブレイクアウトルーム機能を使って、遠く離れた友達と仲良くなろうという企画を予定していたが、時間もなくて一切できなかった。こういうオンライン上での出会い場を創出する工夫は出来なかったと感じている。この点は反省しなければならない点だと思う。もし、ご覧いただいて、感想等ありましたら Google Form 上から投稿していただければと思う。

個人的には非常に密度の濃い2日間で、ドップリ疲れた。オンライン授業を受けている学生さんたちは、日々知らないことが出てくる授業を特に1年生などは朝から夕方まで受けていると思うと、ゾッとする。2日間で辛いのだから、週5日も真剣に人の話を聞き続けるのは難しいだろう。そんな中、日々の授業は続いていく。一大学教員として、この状況の中で何をすべきかということを考えさせられる。そんな中、本セミナーシリーズが皆さんの何かしらのヒント、きっかけになればと思っている。

5月4日(火)

1限目:北川 拓也 w/ 成川 礼, 鹿野 豊 [対談形式]

2限目:登 大遊

3限目:中田 陽介

4限目:髙山 晶子

5月5日(水) 

1限目:平 理一郎 w/ 鹿野 豊 [対談形式]

2限目:成川 礼

3限目:道林 千晶

4限目:高田 修太

2020年8月13日

Alone Together

この言葉は MIT で技術社会論を専門とする認知心理学者のシェリー タークルの書いた本のタイトルである。彼女の講演はインターネット上を検索すれば山ほど出てくる(例えば、TED トーク)。


私は最近、オンライン上の数日間に渡る集中講義を受講してみた。集中講義の内容は私が今勉強してみたい内容であり、非常に楽しいものであった。だが、1日2時間講義の途中に訪れる「10分休憩」の時間は苦痛で仕方なかった。家で一人ポツンと画面越しの前で10分間無言になる。人数が多ければ、なかなか雑談をやる雰囲気にもならない。更には、誰かがしゃべってしまったら、誰かが喋れなくなってしまう。私自身、コンピュータから音楽をかけてみたり、それなりに「寂しくならない」方法を模索してきたつもりである。でも、この焦燥感みたいな感じは何なのだろうか?今のような「ソーシャルディスタンスの確保」が叫ばれている状況においては、オンラインでの講義というのは、Better Solution のような気がしているが、アナログの機能を補完するように設計された「テクノロジー」による「負の側面」はきちんと認識したい。おそらくこれは教育テクノロジー(EduTech) 以外にも言えることなのだろう。先日、少し紹介した「アナログの逆襲」という本の中に、「テクノロジー過信」による「負の側面」に関しては様々な具体例をもって示されている。

また、新型コロナウィルス拡散防止策により、2020年度後半も「オンライン講義」の機会が減ることはないように思える。もちろん、「オンライン講義」によってプラスになった側面も沢山ある。例えば、「いつでも、どこでも」学べる環境というのが、インターネット環境を整えれば実現できることを示してくれたようにも思える。ただし、これは今までの講義の「保管」or「代替」という訳ではなく、「新しい教育方法」の手段の一つではないだろうか?オンラインの向こう側で、一人一人が「学びたい」という意欲に馳せ、同じ想いを共有している時は良いだろう。ただ、「学びたい」というきっかけを与えてくれる「体験」がどこまで出来るのだろうか?「オンライン講義」の時代に考えなければならない大きな課題なのではないだろうか?と思う。

最後に、戦前のブロードウェイで上映されていた「Flying Colors」の中で歌われていた「Alone Together」の Youtube 楽曲を聞きながら、物思いにふけたいと思う。

2020年7月24日

ラインナップされた道具


「道具」を使う人もいれば、もちろん「道具」を作り出す人もいる。どちらが欠けてもいけないと思う。そのバランスはとても重要で、別に「道具」によって産まれる「新しい思考」や「新しい需要」があるのと同時に、今必要だと思う「道具」もある。使い手と作り手の共作になるのではないか?と思っている。また、皆のためにある「道具」もあれば、その時だけ必要不可欠なパーソナライズされた「道具」もあると思う。その時々によって、「道具」に求められることは変わるし、その使用法も変わってくるであろう。

「道具」の使い方を色んな人から学ぶということは非常に良いと思う。もう少し前のことになってしまったが、とある学生さんから「オンライン授業」の出方というのを教わった。私自身にとってみれば、1つのデバイスの前で1つの授業を見るというのが普通だと思っていたが、彼の道具の使い方は違った。同時に複数の授業を立ち上げて、面白そうなものだけの音声をONにするのだと。そのような発想は自分自身の中には無かったので、早速、自分自身でもやってみた。私の場合、教えてくれた彼とは最大3つまでということが分かったが、自分なりの「道具」の使い方を会得するというのはとても重要だと思う。

ただ、「道具」を作り出そうとしている人にとってみれば、どんな「道具」を作るか?ということが鬼門であろう。以前作っていた「道具」を見ながら、特定の性能だけを磨き上げるという発想もあるであろう。しかし、これだけが「道具」づくりではないと思う。みんなが作りたくなるような「道具」を想像し、創り出すということの方がもっと面白いのではないか?と思う。そうなると、これまでの「道具」との性能比較はしなくても良いではないか?だって、どのような使い方をされるのか?ということに関しては未知数なのだから。だからこそ、「道具」は色々とそろえるのが良いのだと思う。適宜、出くわした問題に応じて「道具」を選択できるように、常に準備し続けられる「道具」を作ることこそ、本当に必要なことなのではないだろうか?

2020年7月19日

再び「学ぶ」勇気


今からちょうど1か月前に、「学び」についてのブログを書いた。現在、オンライン授業で様々な観点から「教育体制の再構築」への模索が始まっているように感じる。私自身、このような取り組みは現在のような異常事態において、良い試みなのではないか?と思う。ただ、一方で、「教育のやり方を変える」というコンテクストでは、今までの「授業の仕方」や「教科書の内容」が悪者扱いされるケースも多い。単純に比較をすることで、「教育体制の再構築」に関する論点を明確化しやすいという反面、今までの「授業の仕方」や「教科書の内容」そのものの評価というのがきちんとされているのか疑わしい。私個人としては、これまでになされてきた「教育」そのものが悪かったのか?と思うと、少なくとも私が受けてきた教育はそんなに悪くなかったのではないか?と思っている。私の立場に一番近い、大学の授業を例に、初年次くらいを想定した「授業」について考察してみたい。
注:私自身は大学教員ではあるものの、授業を担当しているわけではないことに注意されたい。

大学の初年次の「授業」内容は、何となく変わり映えのしないものが多いように感じる。特に、所謂、理系と呼ばれる学問を学ぶ場合、「知っておくべき」内容というのが非常に多い。大学に入学した頃には全く意味の分からなかった科目も多いと感じる。そして、私の場合は、授業にそのうち出席しなくなって、自分で勉強を始めていた気がする。自分自身を養護するわけではないが、大学での「授業」の意義というのは、「学び」を日常化するというのが大きな使命なのではないか?と思う。歯を磨くのと同じように、意識しなくても「学ぶ」姿勢を身につけることを、それぞれの科目を通じて学んでいるのではないだろうか?その上で、「学ぶ」姿勢が習慣化されていない人においては、半ば強制的に「学ぶ」姿勢を「授業」という定期的にあるものを通じて、習慣づけていくことが出来るのかもしれないと思う。「授業」に出席することが目的ではなくて、「学ぶ」姿勢が身につけば良いのではないだろうか?私自身、ティーチングアシスタントとして大学院生時代に教壇にたっていたが、大学1年生の「基礎物理学演習」という科目の中で、「学ぶ」環境づくり(学びあえる友達をつくる)ということを意識して授業をしていたが、それは「学ぶ」姿勢を習慣づける意義があったのではないか?と思っている。

それでは、(ある意味、つまらない)「科目の内容」についてはどのように考えるべきなのだろうか?学部の前期課程についての「教育内容」というのは、私個人の感想では、授業を受けたその時点では意味は分からないかもしれないけど、将来、何かで困った時に、「戻ってこられる」ポイントを作ることなのだと思う。私自身も論文執筆過程で、学部の授業で習ったことが分かっていなかったと思い、「線形代数」や「微分積分」の1年生向け教科書を復習したりしたことがある。(というより、そんなことが頻繁である。)「力学」や「電磁気学」を何度勉強しても、新しい発見があるように思えるし、様々な視点からみると、更に面白く内容を理解できているように思える。ただ、30歳も超えて、今さら大学1年生の「教科書」を手にとり勉強するという姿は何とも恥ずかしい。だからこそ、そこには「学び直す」勇気が必要なんだと思う。

2020年7月1日

「憧れ」の日常化

「憧れの最近接領域」
この言葉は、ロシアの心理学者レフ・ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」を教育のコンテストの中で発展させた同志社女子大学名誉教授の上田信行先生の言葉である。
「あなたがいるから頑張れる」「君と一緒だからもっと上を目指せる」。他者の存在が、自分の可能性を広げていく、そうした希望を込めて、僕はそう呼んだのです。(プレイフル・ラーニング p.83)
とコアなアイディアが書いてあるように思える。私自身、上田先生とは MIT で研究していた時に MIT Media Lab の中でお会いした。フットワークの軽快さと貫かれている信念のようなものがうまくミックスされ、一緒にお話をしていると、とにかく勉強になるし、楽しい。


一方で、「憧れ」が「憧れのまま」ではないだろうか?私自身、MITに行き、ボストンに住む前の「アメリカ」と住んだ後の「アメリカ」のイメージは180度変わってしまったというくらい変わっている。私自身は、「アメリカへの憧れ」はあまり無かったが、「海外に住むことへの憧れ」はあったように思える。ただ、「住めば都」という諺があるように、「案外、普通」という感覚に陥った。しかし、「憧れの存在」が何か同じ「人間」のやったことではないというような、「近づけない存在」として捉えてしまっているのではないだろうか?そんな感覚に陥っていることはないだろうか?たまに、「教科書の人」と言われている過去の偉大なる研究者が「天才的」に描写されることがあるが、「偉大なる業績を残した研究者」も案外、人間味があるということは伝記を通じて学んだり、実際に生きているのであれば、会ってみたりすると分かる。

「見えないもの・見ていないものを盲目的に憧れる」ということは、何となく物事の本質を表している気がしてならない。

2020年5月27日

結果の不平等 / 機会の平等

r (= 資本収益率) > g (= 経済成長率)
 
一時、話題になったフランスの経済学者であるトマ・ピケティの「21世紀の資本」の最終的な結論である。200年以上の膨大な資産や所得のデータを積み上げて分析した(使用している統計データは全てウェブサイトに公開されている)ということで、分量が極めて多く、正直、書斎のインテリアとしての「本」の価値があるような本だと思われる。一方で、専門的な見地から賛否様々であるということはウェブサーフィンをすればすぐに分かることであるが、「経済統計データを分析した」という評価には値するのだと思う。ただし、上記の不等式は賛否はあれど、「結果の不平等」さに関して言及しているのだと理解している。誰かが評価したり、評価基準を作ってしまう以上、「結果の不平等」というのは解消されないのだと思う。なので、「結果」だけを見てしまうというのは、いかがなものか?という論調が出てくるのも理解出来る。

COVID-19 の緊急事態宣言は先日解除されたが、未だに多くの教育機関では同じような授業スタイルが展開出来なく、オンライン授業に移行したり、それが様々な制約のために出来なかったりしているのが現状だと思う。また、「9月入学」の議論が再燃し、その議論の過程の中でも著名になった中室牧子さんの書かれた「「学力」の経済学」においても「統計的なデータ(=結果)」から判断すべきであるということが本質的には書かれており、5年前くらいから「データサイエンス」の重要性が様々な分野においても言われ続けてきたように思える。

ただ、緊急事態の中で「結果(=統計データ)」に関して妙に敏感になるのは何故なのだろうか?原発事故の際の放射線量、COVID-19 のPCR検査の陽性者数、どちらもハードウェアエラーが含まれているにも関わらず、「統計的なデータ」で判断されてしまう。このあたりは私が習ったような単純な「マクロ経済学」の知識だけでは太刀打ちできないのだと思うし、「行動心理学」や「社会心理学」といったパーソナルな部分との関連性の中に答えが見いだされることが多いように感じている。

一方、「結果の不平等」さ故に、「機会の平等」が保たれていないと判断するのは拙速な気がする。この「機会の平等」は特に「教育」において重要視される傾向にあると思う。コロナ時代のオンライン教育実施論で話題にのぼっている「教育格差」が拡がってしまうという論調は、本来は、様々な制約から「機会の不平等」の議論であるにもかかわらず、「結果の不平等」に目がいってしまっていると思う。また、「教育」の次は「ダイバーシティー」に関する議論であるように思える。これは、とある国際会議において「東京宣言」と呼ばれる文章の策定に関わった際に勉強をした 国連持続可能な開発目標 (SDGs) の目標の中にも組み込まれていると個人的には理解している。また、「No one left behind」というコンセプトは、「機会の平等」についての担保をしようという心がけなのだと理解している。ただ、「機会の平等」は統計的な指標では一概には測りにくいが故に、どのように品質を保証していけば良いかが分かりにくいのも問題である。また、全てのことで「機会の平等」が担保されるべきのだろうか?という論点もあるであろう。何を「最低限」担保しなければならない「機会の平等」であるのかを今一度、考えてみる機会になっているのだと思う。


2020年5月22日

グローカル

Think Globally Act Locally 
「地球規模で考えて、地域で行動しよう」

COVID-19 の新型コロナウィルス対策では、「感染症」という地球規模の拡大を考えて、経済行動などは厳しく制限され、「水際対策」などといった国境移動の制限などにより、実質的に「地域で行動」せざるを得なくなっている。奇しくも、国連が定めた持続可能な開発目標(SDGs) の目標の中にも、

3.3 2030 年までに、エイズ、結核、マラリア及び顧みられない熱帯病といった伝染病を根絶するとともに肝炎、水系感染症及びその他の感染症に対処する。

とあり、我々の目指した目標が何だったのだろうか?ということが問われている。本来、グローカル (Glocal) 人材とは、最初にあげたコンセプトを体現できる人間であったように思う。この COVID-19 の自粛生活は Glocal 状況を強制的に作り出してしまったのではないか?と思っている。

日本においては関東地域以外においては緊急事態宣言が解除されてきた中で「新しい生活様式」が提唱され、今後、「変わらなければならないもの」、「変わっていくもの」、「変わらないもの」に大別されていくのであろう。確かに緊急事態宣言下や強制ロックダウンをしている中では、COVID-19拡散防止という地球全体の課題に対して Act Locally を体現してきたのだと思う。

リモートワークでの仕事が慣れてきた皆さんは「オンライン会議」が増えてきたのだと思います。ただ、テクノロジーで乗り越えられない壁がいくつかあると思っている。今回、顕著になってきたのは「時差」の問題である。

「科学の普遍性」があると思われる研究分野においては、本来的に学術が出来る場所は関係ないと思われている。もちろん研究環境によって成果の出やすいもの、出にくいものがあるのは事実だと思うが、研究者自身の能力・努力・運にもよるところが多いと思う。こういう事態になると、「オンライン会議」は様々なところで立ち上がり、一部ではあるが、「オンラインセミナー」のまとめサイトなるものが立ち上がっている。気軽に出席出来るという利点や「録画機能」を使い、後で最新の研究動向をチェック出来る機会も増えてきた。

一方で、「セミナーの開始時間」はあまり変わることがない。研究者人口が多いのか分からないが、きちんとオンラインセミナーが整備されているのは良くも悪くも「欧米中心」である。そのため、開始時間が日本時間で深夜になることは日常的である。そのため、リアルタイムに出席している日本人研究者をあまり見かけることがない。これ自体は仕方ないことであるが、欧米中心で学術動向が依然として推移している証左にも思える。科学技術大国になりつつある「中国」など日本との時差が小さな範囲で学術的にもアクティブなところが沢山あると思う。

歴史的な経緯があるのは事実であるが、「地政学的」な利点を最大限に活かすことが出来、真の「グローカル」人材になれる日は来るのだろうか?

2020年5月8日

データダイエット

データダイエットへの協力のお願い:遠隔授業を主催される先生方へ(イラスト版) 出典:国立情報学研究所

このネーミングは、4月からの大学等遠隔授業に関する取組状況共有サイバーシンポジウム実行委員会という名義で「お願い」という形で出されました。その一行目は原理原則だけど、忘れやすいことを言っています。

情報通信回線は全国民が共有する有限の資源です。

「有限の資源」であるということを言っているのは、当たり前ですが非常に重要だと思います。「どれくらい出来るのか?」ということを突き詰めていく学問が、個人的には「情報科学」という学問分野になるのだと思います。通信容量に関しては、「情報科学の父」であるクロード・シャノンによって定式化されました。現在では、「シャノンの通信路符号化定理」と呼ばれており、理論的な限界値を「シャノン限界」と呼んだりしています。ある種の「情報」というものに対する「限界」を定めていくのが、情報科学の面白い点だと個人的には思っています。なかなか準備の進まなかった「授業のオンライン化」に対して、今回の「コロナ自粛」では一気にそのオンラインプラットフォームを活用していかなければならない状態になっています。すると、「オンライン上での渋滞」というのが発生し、「インターネット」という一見するとバーチャルな空間だったものが、きちんと「物理的な」(今回だったら、ネットワークケーブル)というものによって律速させられているというのを教えてくれています。個人的な理解では、量子力学という「物理法則」を用いて「情報科学」の本質だと思っている「定量的な限界」というものを示していくということが「量子情報科学」と呼ばれる学問分野なのだと思っています。私は、この「量子情報科学」という学問分野の中で研究を行っています。「量子コンピュータ」の開発がブームとなり、たまに分野の概観をするようなアウトリーチ活動を行っていますが、その中で協調させていただいているのは、「量子力学の法則を使って、「計算」の限界」を知る学問が、「量子計算機科学」であるのではないか?とお話しさせていただいております。

では、一体、どれくらいの通信容量が増えているのでしょうか?少し調べてみると、日本国内では大手のNTTコミュニケーションズが「インターネットトラフィックの推移」をまとめていただいています。どの時間帯が良いのかという指針にもなるかもしれません。実際に「実測された生データ」が様々集まってきていますので、今後、このような「生データ」をどのように活用していくのか?ということが重要になるのでははないでしょうかね?

そのような「生データ」やオンライン授業のプラットフォームが形成されている「インターネット空間」は、どのようになっているのでしょうか?その理念を以前教わった時に以下のように教わりました。

インターネットは性善説で出来ている。

ネットワーク攻撃などは目の見えない形になっていますが、「性善説」だからこそ、一部の人たちの「悪さ」みたいなものが目立ってしまうという理念のもと設計されています。インターネットの精神性そのものは、「皆で皆を守る」というものなのかもしれません。この理念こそ、今の新型コロナウィルス対策に必要な根本的な考え方ではないかと思っています。

でも、一方で「出来ないよ」という思われる方もいらっしゃるかもしれません。今回の「ダイエット」というネーミングは非常に素晴らしいと思っています。自分自身を思い返してみても、「自分自身の強い意志」がなければ、ダイエットは出来ません。自分で自分自身を追い込まなければならないからです。そのためには、一定度の「安定」が必要な気がしています。仕事が凄く忙しい時期に「断食ダイエット」など出来ませんし、もし、それでも強行したら倒れてしまいます。「ダイエットも出来る時にしか出来ない」と思うからです。そして、「出来る余裕のある人から」ダイエットしていけば良いのかなと思っています。「データダイエット」も同じです。やっている事例を見て勉強するのは良いと思いますが、「無理のない程度に」データダイエットすることが重要なのではないかと思います。

出来る事を出来るだけ

という精神が重要な気がしてなりません。今後とも無理しない程度にコロナ自粛生活を送っていきたいと思います。

2020年5月2日

「何かをするために」~今できることは何か?~

先日、高校の同級生である調布市立多摩川小学校の庄子 寛之先生の呼びかけで始まった「オンライン授業を通してこれからの教育を考えようプロジェクト」(仮)のオンラインイベントで参加しました。事のきっかけは単純なことで、COVID19 という新型コロナウィルス対策のために、学校が閉鎖されている状況で、1人の小学校教員の庄子君の想いから始まったイベントだったと聞いています。正直な感想は、小学校のオンライン化はここまで進んだのか!!とビックリしていました。と、同時に様々な制約の中で、まだオンライン授業が始められないというところもありました。生徒さんたちにこういう世の中が激変している状況だけど、「何とかしたい、けど、何が出来るのだろうか?」と必死になっている小学校の先生方には感謝しかないなと思っています。様々な小学校の先生方の実線事例を勉強していくと、オンライン授業を実施するための多くの技術的&制度的課題が存在する一方で、大きな壁は「果たして、私でも出来るだろうか?」というものの壁が存在しているような気がしました。
提供:いらすとや


個人的には「何かをするために」は、それより前に準備が必要であろうと思っています。この事例のオンライン授業を開始するにあたっては、「オンライン授業」のための端末・ネットワークインフラの整備は必須です。大学のオンライン授業でも、wifi ルーターの貸し出しを行ったりするなどして対応に追われている部分もありますが、事前に準備をしていた方が圧倒的に有利だと思います。現在、使われているオンラインプラットフォームの多くも、この自粛期間に入る前に既にあったものを改良しながら使っているのが現状だと思います。 Google Classroom や Zoom などのウェブツールは今では必要不可欠になっているのだなと実感しました。同時に、ネットワークインフラを支えている方々の努力で、現在の状況が実現出来ているのだと思います。普段、直接的には「目に見えない仕事」ではありますが、素晴らしい準備をしてきたのだなと思っています。「ローマは一日にしてならず」という諺があると思います。今、それなりにオンライン化が進められているところは有形無形のもの問わず、「準備」がしっかりしていたのだろうと思います。その準備の上で、スタートダッシュが切れたのではないか?と思いました。

では、「準備不足」の状況であった場合には何をすべきなのか?という疑問が沸いてくるのは当然だと思います。目の前で出来る限りの手を尽くして、ダメだったという事例も小学校の先生方には沢山経験されているそうです。今、この自粛期間にすべきことは
「次への準備」
ではないのだろうか?と思います。今から準備しても遅くはないはずです。自粛期間があけた後の「これから」について考える時間であって欲しいなと思っています。「何も出来ない」から「(少し時間はかかってしまうかもしれないけど)何か出来るかもしれない」になると思います。また、「何かしたいのだけど、何もしていない(または、出来ない)」と落ち込んでしまうのは、それまでの準備が足りなかったからだと反省し、今からとりかかれる準備をしっかりすれば良いのだと思っています。個人的には、東日本大震災の時、原発事故が起きて何も出来ませんでした。「大丈夫だと思う?」と聞かれても、自分自身の専門分野ではないので、ハッキリとは答えられませんでした。今回もそうです。私自身は物理学のトレーニングを受けてきましたが、今、現場で起きている感染症のことなどは分かりませんし、他の人たちよりは「論文」を読み解くことが出来るようにトレーニングしてきましたが、それでも今回の「感染症」に対して専門的な意見が言えるほど熟知していません。「直接的にせよ、間接的にせよ、準備をしていればチャンスが回ってくるはず」だと信じることが出来ることこそが、学校で本来学ぶことなのではないか?と思うようになりました。
いずれ皆さんの番は回ってくるはずです。 
それに備えて準備しよう。