2025年8月17日

EXPO に行ってみて

 ちょうど今から20年前、名古屋で愛・地球博があった。当時、私は大学3年生だったが、この万博というお祭りを後方から眺めていたのを今でもよく覚えている。東京の北の丸公園内にある科学技術館。その横にある小さなオフィスでお仕事を私は世界物理年日本事務局のお手伝いをしながら、この様子を見ていた。

おびただしい数の関係者がいて、調整しなければならないものも多く、更には、ほとんど日程が動かせないように見えるくらいギチギチな感じで、何個も同時並行にプロジェクトが走っている。裏方の人たちはそれらを調整するのに奔走していたのを覚えている。実は何個のプロジェクトが走っていても、実際のところは裏方の人たちの腕で決まってしまうところが多く、ほとんど1人か2人の信頼できる裏方のところに情報が集まってきてしまい、ほとんどパンク寸前みたいな状態の自転車操業状態であった。今でも脳裏に焼き付いているのは、膨大な資料の山。印刷するのが当たり前みたいな時代だったので、対面の会議を開くのも一苦労であった。今思い返してみても、あの量をよくさばいていたなと思う。現場に調整に行くこともしばしばで、名前もほとんど知られる事のないこの裏方の人たちの情熱が失われた瞬間に、大イベントはたちまち立ち行かなくなるだろうなと思っていた。そんな感覚だった。

私はこの人たちから仕事を横で見せてもらい、見様見真似で仕事を覚えていった感覚である。どうやってお互いが仕事をしやすいようにするかとか、同時並行のロジの立て方とか、私が最初にこのようなイベントを運営していたのは、岡山で開催された第1回 物理チャレンジである。私は事務局のアルバイトのような立場であったが、結局、人がいなくて、様々な人のサポートを受けながら事務局そのものを担当していたように思う。

そこから20年。大阪・関西万博があり、今週は内閣府・文部科学省主催の「エンタングル・モーメント ―[量子・海・宇宙]× 芸術」の開催されており、SNSを通じて、多くの研究者が関わっている。こうやって始まってみると、見えないところでも一生懸命、開催準備のために動かれていたことに感謝でしかない。だが、私が EXPO に行ったのは、このイベントに主席するわけでもなく、「いのちの遊び場 クラゲ館」(テーマ:いのちを高める) を担当している中島さち子プロデューサーが主宰したシグネチャーイベント「世界遊び・学びサミット」のフィナーレで上田信行先生が作詞をした「希望の詩」を披露するために参加した。当日は強風のため、EXPO アリーナで予定されていたマオリ族のハカを披露するイベントが突如中止になってしまい残念に思っていたところ、クラゲ館で急遽、イベントが開催される事になり、なんだかんだで移動。どうしようかなぁ~とフラフラしていたら、他の仲間たちと合流することとなり、待っていたら、偶然真横にクラゲ館を設計した小堀哲夫さんがいらっしゃった。小堀さんはそのままハカを見たけど、イベント会場のトークイベントに突如参加することになり、さっきまで同じ観客席にいた小堀さんを今度は観客席からステージ上で見ることに。

クラゲ館に行く直前は小堀さんと一緒に写っている設計者の山崎さん、大石さんの案内で「森になる建築」を見学。お二人の設計者としての情熱を感じる作品だった。

最後は、私も WASSE 内に設置されたステージへ。歌唱指導をしてくれた ゴスペル集団 Soulmatics の皆さんもダンス指導をしてくれた Dance Educator の福岡小百合さんも一緒に。ステージにあがっても偶然の産物が多く、SNS でそれを見た高校の部活の後輩から突然連絡が来たりとビックリすることの連続。そして、裏方さんの存在であたかも当たり前にステージに立たせてもらっていますが、刻一刻と現場で時間調整しながら進められていたと思う。


結局、万博という場は、20年経っても一部の人の情熱で支えられて運営されており、突然起こってしまう出会いをどれだけ楽しめるかということがポイントなのだと。その集客のために、パビリオンがあったり、ステージがあったりして、人と人との出会いの可能性を高めているのかなぁ、と考えてしまう。20年前も暑かったと記憶しているが、20年間で技術力が進んだのか?なんなのか分からないけど、熱中症であったりするリスクが高まっていたり、無理をしたくても物理的にできないことも多くなってしまっている。関係者の方々は体力を残しながら最後まで走り抜けることができたらと思っている。そして、万博はゴールじゃなくて、「はじまり」「きっかけ」なのだと思いますので、関係者の皆さんもイベントが終わった後も体力が残っているくらいで進めばいいなと願っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿