r (= 資本収益率) > g (= 経済成長率)
一時、話題になったフランスの経済学者であるトマ・ピケティの「21世紀の資本」の最終的な結論である。200年以上の膨大な資産や所得のデータを積み上げて分析した(使用している統計データは全てウェブサイトに公開されている)ということで、分量が極めて多く、正直、書斎のインテリアとしての「本」の価値があるような本だと思われる。一方で、専門的な見地から賛否様々であるということはウェブサーフィンをすればすぐに分かることであるが、「経済統計データを分析した」という評価には値するのだと思う。ただし、上記の不等式は賛否はあれど、「結果の不平等」さに関して言及しているのだと理解している。誰かが評価したり、評価基準を作ってしまう以上、「結果の不平等」というのは解消されないのだと思う。なので、「結果」だけを見てしまうというのは、いかがなものか?という論調が出てくるのも理解出来る。
COVID-19 の緊急事態宣言は先日解除されたが、未だに多くの教育機関では同じような授業スタイルが展開出来なく、オンライン授業に移行したり、それが様々な制約のために出来なかったりしているのが現状だと思う。また、「9月入学」の議論が再燃し、その議論の過程の中でも著名になった中室牧子さんの書かれた「「学力」の経済学」においても「統計的なデータ(=結果)」から判断すべきであるということが本質的には書かれており、5年前くらいから「データサイエンス」の重要性が様々な分野においても言われ続けてきたように思える。
ただ、緊急事態の中で「結果(=統計データ)」に関して妙に敏感になるのは何故なのだろうか?原発事故の際の放射線量、COVID-19 のPCR検査の陽性者数、どちらもハードウェアエラーが含まれているにも関わらず、「統計的なデータ」で判断されてしまう。このあたりは私が習ったような単純な「マクロ経済学」の知識だけでは太刀打ちできないのだと思うし、「行動心理学」や「社会心理学」といったパーソナルな部分との関連性の中に答えが見いだされることが多いように感じている。
一方、「結果の不平等」さ故に、「機会の平等」が保たれていないと判断するのは拙速な気がする。この「機会の平等」は特に「教育」において重要視される傾向にあると思う。コロナ時代のオンライン教育実施論で話題にのぼっている「教育格差」が拡がってしまうという論調は、本来は、様々な制約から「機会の不平等」の議論であるにもかかわらず、「結果の不平等」に目がいってしまっていると思う。また、「教育」の次は「ダイバーシティー」に関する議論であるように思える。これは、とある国際会議において「東京宣言」と呼ばれる文章の策定に関わった際に勉強をした 国連持続可能な開発目標 (SDGs) の目標の中にも組み込まれていると個人的には理解している。また、「No one left behind」というコンセプトは、「機会の平等」についての担保をしようという心がけなのだと理解している。ただ、「機会の平等」は統計的な指標では一概には測りにくいが故に、どのように品質を保証していけば良いかが分かりにくいのも問題である。また、全てのことで「機会の平等」が担保されるべきのだろうか?という論点もあるであろう。何を「最低限」担保しなければならない「機会の平等」であるのかを今一度、考えてみる機会になっているのだと思う。
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