人生旧を傷みては千古の替らぬ情の歌
土井晩翠 「万里の長城の歌」
書き物をしていると良く分からなくなることがある。そんな時、参考にしている教科書に戻る。ただ、どうしてこんな発想が出てきたのか分からない。教科書は「整理されすぎている」と思う時がある。整理されているが故に勉強しやすいし、体系化されていることで先人が重ねてきた苦労をしなくて良いことがある。
ただ、いざ自分自身で一からやってみようとすると出来ない。体系化されていることを「勉強」することは出来ても、これからの人たちが「勉強する」ための素材を提供できないことに気づく。個人的には、「勉強」と「研究」の違いだと思っている。そのため、研究では四苦八苦することになる。どんな研究であれ、あまり苦労しなかったという話は聞かない。でも、何かしらの羅針盤みたいなものが欲しい。そのために、自分自身の研究に関係する論文を読みあさる。研究論文は研究者にとっての成果物であるため、その中に研究者自身の想いを詰める。文章で何かを伝える能力は、研究者にとって必須なのではないか?と思うことさえある。しかし、高校生の頃、ヘビ型ロボットの研究で著名な東京工業大学の広瀬茂男さんの講演の中で同じことを言っていたが、当時は全く分かっていなかったと思う。
Cet âge est sans pitié (that age knows no pity)
このフランスの諺が妙にしっくりくる。最近になって、大学生ぶりに「思考の整理学」を読み直したのだが、著者の洒落っ気たっぷりの文章で展開される「研究の方法論」が妙にしっくり来ている。大学生になりたての頃はまだ研究論文を書くということが何であるのかの実感がなかったからであろう。同じ時期に読んだ「知的生産の技術」のほうが非常に明瞭で良いと思っていた。「読書は自分を映す鏡である」とは良く言ったものだ。
さて、研究の羅針盤は過去の研究論文に学ぶしかないところがある。研究論文とは一口に言っても様々なタイプがあるのだが、研究分野を作り出す契機となった論文はあるはずである。「ゼロからイチ」を作ったエポックメイキング的な論文である。そのような論文は多かれ読みにくかったりするのであるが、当時の世界観に浸ってみると、「研究者の情熱」のようなものが感じられる。その情熱を読みとり、自分自身の研究活動に昇華させていくのが難しい。私がこれまでに書いてきた研究論文できちんと出来ているかと言われると難しいが、なるべく私自身の「息吹」を研究論文の中にしたためようと思っている。
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