イカを見ずにスルメばかりを見る
とある研究者が発した「研究感」に対する批評である。「スルメ」となってしまった研究は妙に「美味しい」ところがある。スルメは日持ちもするのと同様に、標準的な教科書に掲載されるような内容であった日にはかなり長きに渡り、研究者、研究者を志す学生などを魅了し続けていくことになる。自分自身の研究が「スルメ」に昇華していくところを見てみたいと思う人は多くいると思う。多くの研究者が指摘していることであるが、「1人にも読まれずに忘れ去られていく研究論文」が世の中にはあふれている。そうなるまいと、研究者は日々努力をし、自分自身の研究の魅力を最大限に発揮させようとする。
また、「美味しい」と思う感覚も人それぞれである。万人に必ず美味いという食材がないのと同様に、万人が認める研究というのはないように思える。多くの場合の研究論文は、「論文誌」というものに掲載されるために、peer review (査読)と呼ばれるシステムにかけ審査される。「美味しい」かどうかをチェックするための機構が存在しているということになる。ただ、不思議だと思うのは、「まずい」と思うものはだいたい同じであるということである。「美味しい」は千差万別なのにもかかわらず、「まずい」と思うネガティブな感覚は一致している。研究でも同じだと思う。とある研究論文の査読をしている時に、「絶対にダメだろう」と思うものは、大概、何か共通したものを持っている。
さて、「生きたイカ」は「スルメ」とはまた別の格別なる美味しさがある。しかし、イカの場合、美味しさがそう長くは続かない。そのため、「旬」というものが存在しているのだ。研究にも同じようなことがいえる。「研究の旬」というものがあるような気がしてならない。旬なものがいつもに増して美味しいの同様に、研究が油が乗っている時がある。きっと20世紀前半の物理学というのは、「旬」だったに違いないと思うことが物理を勉強していると良くある。今では「スルメ」になってしまった物理学の形成史は人間ドラマがあって非常に面白いものがある。一方で、作り出された「旬」もある。周りが「美味しい」と言っていると、何故か「美味しく」感じることがある。また、同じものを「食べる環境」を変えた時に、「美味しさ」が変化するときがある。食材と舌との化学反応としては同じはずなのに、「何故?」と思うことがある。作り出された雰囲気の中での「美味しさ」というのは、どのように論理的に説明が出来るのか知りたいものである。研究者は膨大な食材の中から自分の嗅覚で何が自分自身の中で「美味しいもの」なのかを探し続ける「探検美食家」のような気がしてならない。
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