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2021年7月13日

「%」の不思議さ

最近、谷崎潤一郎の「途上」という初期の頃の短編小説は日本文学の中で「確率」の概念を導入した初めての小説であるという評価を教えてもらった。個人的には、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」という随筆が好きで、日本から旅立った友への餞別で送った本である。谷崎潤一郎の文章に込められた世界観からは「新しい概念」を導入していこうという感じがする。

私はひょんなことから、「乱数」というものを研究することになったのだが、「乱数」と「確率」はきってもきれない関係にある。私の研究は突き詰めると、「自然現象の中に確率概念があるのだろうか?」という問いに尽きる。これは私個人の研究課題であって、日本に「確率」という概念がどのように日常に根付いているというのは非常に興味深い。


天気予報で毎日聞く「降水確率」。「20%」くらいなら、今日は傘を持っていかなくても良いと感じられているのは何故なのだろうと思う。

また、あまり良い例ではないが、下記の竹中平蔵氏が東日本大震災後の地震に関する「確率計算」に端を発したウェブ上の考察は「竹中平蔵氏の確率論」と呼ばれていて、日常的には「確率」の概念が根付いていないことを露呈させたと思う。

「あえて単純計算すると」というところの意図は分からないことは注意したい。ただ、「モンティ・ホール問題」の時は、どのように考えるのか?ということは知りたいが、「確率」に騙されることは多い。

最近、コロナ禍になって、再び、「%」ということを耳にする機会が多くなってきた。今回の話は、統計学に基づくもの。

「おそらく同じであろう」というサンプルから少数回の試行だけをすれば、きっと、「おそらく同じであろう」というサンプルの中の確率を推論することが出来る。

というロジックに基づいている。実証データにおいて、「おそらく同じであろう」ということをどのように検証すれば良いのかという画一的な方法論があるわけではないと個人的には認識している。ただ、個々人にとっては、「統計学」に基づいた「確率」が問題ではない。「かかる」か「かからない」かの問題であり、最近、話題のワクチンの副反応の問題も「出る」か「出ない」かの問題と極端に捉えることも出来なくもない。一人一人が「サイコロ」を振って、「当たり目が出るか出ないか」ということに依存した世界観が嫌だという意見もあってもおかしくないし、いくら統計学に基づいたものであっても、個々人に起こってしまった問題は別問題である。この観点は、哲学者であるマルクス・ガブリエルの著書でも指摘されている。「統計学」に基づきすぎた価値判断ばかりに囚われていると、目の前で起こってしまっている現象に対して対応できなくなる可能性も指摘されている。どうやったら、「%」というものの日常的な感覚を会得できるものだろうか?

2020年7月24日

ラインナップされた道具


「道具」を使う人もいれば、もちろん「道具」を作り出す人もいる。どちらが欠けてもいけないと思う。そのバランスはとても重要で、別に「道具」によって産まれる「新しい思考」や「新しい需要」があるのと同時に、今必要だと思う「道具」もある。使い手と作り手の共作になるのではないか?と思っている。また、皆のためにある「道具」もあれば、その時だけ必要不可欠なパーソナライズされた「道具」もあると思う。その時々によって、「道具」に求められることは変わるし、その使用法も変わってくるであろう。

「道具」の使い方を色んな人から学ぶということは非常に良いと思う。もう少し前のことになってしまったが、とある学生さんから「オンライン授業」の出方というのを教わった。私自身にとってみれば、1つのデバイスの前で1つの授業を見るというのが普通だと思っていたが、彼の道具の使い方は違った。同時に複数の授業を立ち上げて、面白そうなものだけの音声をONにするのだと。そのような発想は自分自身の中には無かったので、早速、自分自身でもやってみた。私の場合、教えてくれた彼とは最大3つまでということが分かったが、自分なりの「道具」の使い方を会得するというのはとても重要だと思う。

ただ、「道具」を作り出そうとしている人にとってみれば、どんな「道具」を作るか?ということが鬼門であろう。以前作っていた「道具」を見ながら、特定の性能だけを磨き上げるという発想もあるであろう。しかし、これだけが「道具」づくりではないと思う。みんなが作りたくなるような「道具」を想像し、創り出すということの方がもっと面白いのではないか?と思う。そうなると、これまでの「道具」との性能比較はしなくても良いではないか?だって、どのような使い方をされるのか?ということに関しては未知数なのだから。だからこそ、「道具」は色々とそろえるのが良いのだと思う。適宜、出くわした問題に応じて「道具」を選択できるように、常に準備し続けられる「道具」を作ることこそ、本当に必要なことなのではないだろうか?

2020年7月20日

道具の使い方

出来ることが増えてくると、必然的に使える「道具(ツール・技術)」も増えてくる。何かあっても、「道具」を使って何とかまとめたりすることが出来るような気になる。しかし、一体、「道具」は我々を守るためだけにあったのであろうか?

最近、コンピュータの歴史を調べる機会が多く、そんな中で「思考のための道具―異端の天才たちはコンピュータに何を求めたか?」およびその update 版?「新 思考のための道具 知性を拡張するためのテクノロジー ― その歴史と未来 」という本に出くわした。丁寧に取材を重ねた形でまとめられた本であり、コンピュータの歴史を知るにはうってつけの本であった。この本のタイトルにあるように、「道具」は「何かの目的のため」になくてはならない。そして、適切な「道具」を選択し、適切に使うことで「道具」の本来の威力を発揮するのであろう。普段の生活の中では、適切な道具を知らず知らずのうちに選択している。少しばかりの要件があり、「メール」を打つ。書くのが面倒だからという理由で「電話」をする。その時々によって、適切な「道具」の選択を知らず知らずのうちにやっている。

ただ、「思考のための道具」をきちんと選択したことがあるだろうか?自分自身の思考を深めるために、どのような「道具」が必要か?ということはあまり考えられていない気がする。しかも、「思考」は自分の体一つで出来ると思うからであろうと思う。自分の体一つで出来るものほどこそ、なかなか体に染みついた習慣を変化させることは難しいと思う。それを助けてくれるのが「道具」なのではないだろうか?どうやったら、自分自身の思考を深めることが出来るのか?を今一度考えてみる良い機会なのかもしれない。

暗号解析機 @ Bletchley Park