言わぬが花
という諺は、「言わない」ことに対する美学が詰まっている。
研究者の最終的なアウトプット形態は今も昔も変わらず、「論文」と言われる「紙」ベースのものに「言葉」を紡ぐことである。メディアアートなどの「作品」を実際に展示するようなアウトプットの仕方に対する模索も続いているように感じられる。だがしかし、このように「作品」を展示するものを良しとしている学術領域でさえ、結局のところ、「研究者の言葉」で書かれた「論文」で審査されている。論文に書かれたことを重視する研究者にとって、「言葉の重み」を感じることは良くある。このあたり考えは、「異化の勧め」のポストに纏めてある。
一方で、直接的に「言わない」「言葉にしない」というのは大きな力があるのだと感じることもある。COVID-19 の緊急事態宣言で再び取り上げられるようになった「日常」という言葉ではあるが、「日々考え続けていること」「日々やっていること」は当たり前になりすぎていて、「言葉」にしない。最も、「言葉」にはしないけど、皆、同じことを考えながら行っているという集団は、「言葉」にするよりも強固なものを感じる。
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私は昔、ボストンに住んでいた。ボストンに行くことになった経緯は突発的なことが重なっていったことではあるが、アメリカに住んでみる前までは、「アメリカに住むのは嫌だな」と正直思っていた。その理由は単純であった。
The United States is the number one.
という考え方が嫌いだったからである。確かに統計的なデータを見れば、当時、アメリカという超大国は「ナンバーワン」であることが多い。ただ、「皆まで言うな」と思っていた(というより、今でもそう思っている)。実際、ボストンに暮らし始めてみると、先の考え方はアメリカの表面的な側面を捉えているに過ぎないということを感じることが多かった。実際に、先の考え方を表現している場面に出くわすのは、大統領選か新しくアメリカに来た人と会った時に「何故、アメリカに来たのですか?」という質問の答えの時くらいで、日々、暮らしていく中で「The United States is the number one.」という言葉を聞いたことはほとんどなかったのではないかと思う。また、アメリカは何でもかんでも「言わない」といけないと誤解されることも多いが、何でもかんでも「言えば」いいというものではないということを知った。こうして、ボストンを去る頃には、「ボストンはまた戻ってきたいと思う場所」になっていた。あれから10年ほどが経ち、アメリカは様変わりしてしまったと感じる日々も多いが、「言葉」にしていない「強さ」があるのだろうと思っている。
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