新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。今頃は、新しく始まる大学生活に期待と不安が入り混じっている頃ではないかと思います。私自身、20年以上前、大学に入学した際の頃、何を考えていたのかを思い返すと、何事にも全力投球をしようとしすぎて、肩に力が入りすぎていた事を思い出します。入学式の日、学長を始めとして、何人かの方が貴重な祝辞をいただいたと思うのですが、申し訳ないことに、今では全く記憶に残っておりません。何となく毎日、楽しそうだという理由だけでキャンパスに行き、「とりあえず、やってみよう」という精神で突き進んできました。キャンパス内で偶然なのか必然なのか分からない出会いが様々あり、結果として楽しく充実した大学生活が過ごせたことは間違いないかなと思っております。そのような多様な機会は一度には処理できない程の情報量があり、それを全部見てからでないと決断できないとなると、心身共に疲れてしまうのではないかと思っております。自分自身のアンテナを常に張り巡らせながら、自分自身の直感にかけてみるというのも良いのではないかと思っております。
さて、私自身、決して模範となるような学生ではなかったということは、当時、周囲にいた人たちが大勢証言してくれると思いますが、大学の授業で何を学ぶことが重要なのかということを教壇に立つようになってから考えるようになりました。大学院生の頃、担当させていただいていた1年生の物理学(力学・電磁気学)の演習では、今となっては難しい骨のある演習問題ばかりをやってもらっていたような気がします。骨のある演習問題を研鑽することで、「1人では解けない問題がある」ということを具現化することを心掛け、それをクラス内の人たちと共有することによって、自然とグループワークを行うことを推奨してきました。これは、前職の群馬大学の1年生の物理学(力学・電磁気学)の授業においても基本的には同じ方針でしたが、コロナ禍ということもあり、「一緒に学ぶ」ということが難しい時期であったので、ブレイクアウトルームなどを多用して工夫をしていた思い出があります。しかし、前職の授業方法を振り返るうちに、「何故、物理学という科目を教えなければならなかったのか?」という疑問に再度ぶつかりました (過去の疑問はこちらより)。大学教育における教養というのは「物理学」という学問に対する「知識」を身につけることだったのか?という疑問です。年々増加してきている「答え」を追い求めてしまう体制であったり、先端的なものを追いかけようとする態度は、どうしても「知識」を手に入れたいという欲求に似ている気がします。ただ、「知識」は常にアップデートされ続けていくものであり、そのいたちごっこを続けなければなりません。そのようなすぐに古くなってしまう「知識」を膨大にかき集めても、大学卒業時に何が残るのか?という疑問は尽きません。私自身が学生時代より「知識」の生産スピードは格段に上がり、頭の中をパンパンにさせて卒業させていくことが重要なのでしょうか?専門職に就き、大学で得た「知識」がすぐに役立つというキャリアパスもあるでしょうが、大学で学ぶ大半の学問分野は「知識」がすぐに役立つということは稀有なのではないでしょうか?そこで、大学の中で学ぶべきものは「智慧」なのではないか?と思うわけです。授業というコンテンツを通じて、大学教員は自分自身の考え方を表現する場を与えられ、その考え方・学問に対する姿勢を見せていくことが重要なのではないかと思います。そして、これまでに学問を築き上げた偉人たちの考え方を伝達することで、「知識」ではなく「智慧」を授けることが出来るのではないか?と思うに至りました。ただ、「知識」は一方的に1人でも会得することが出来るとは思いますが、「智慧」を1人で会得することは私は非常に難しいのではないかと思っています。そのために、大学には広大なキャンパスがあり、その中で切磋琢磨することでしか会得できない「智慧」が詰まっているのではないかと感じております。
改めて、大学生になった皆さん、入学誠におめでとうございます。大学生活を楽しんでもらえればと思います。
追伸:
筑波大学生で私と話をしてみたいという方がいらっしゃいましたら、気軽に第3エリア 工学系学系F棟 (第3エリア前のバス停の一番高い建物) 911号室にお越しいただければと思います。
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