2021年5月16日

「大学教員・先輩が歩んだ道」

一度は半分以上の授業が対面となり、賑わいをみせていたキャンパスが、今ではどんどん静けさを取り戻しているようになった。そんな議論が始まった4月24日(土)の夜に何か私にも出来ることはないのだろうか?ということで、Golden Week 特別企画と題して、「大学教員・先輩が歩んだ道」という連続セミナーイベントを企画した。最初に思い浮かんだのは、現在、大学で教えている学部1年生。折角、大学での勉強を楽しみにしてきた学生さんたちが、新型コロナウィルスという未知なる社会現象と対峙しなければならず、右往左往してしまっている姿はさすがに何か出来るのではないか?と考えた。セミナーシリーズのスピーカーは私の独断と偏見で選んだもので、「みんな違って、それでいい」というメッセージが何とか伝われば良いかな?という人選にしたつもりだ。すべて自分が築き上げてきた人脈で、今回のスピーカー陣があっという間に決まった。今回、協力できなかった方を含め、様々な方のご協力のもと、今回のスピーカーを集めることが出来たのだと思っている。この場を借りて感謝したい。更に、休憩中に何も「シーン」としているのが嫌だったので、メンバーの一人が友達で、最近インストルメントを中心に活動を始めた 陽kage の楽曲を使用させていただいた。また、事前に Zoom の接続チェックを友達としたり、友達に恵まれたなぁ。。。と思った2日間だったと思う。

一方、当初は Zoom のブレイクアウトルーム機能を使って、遠く離れた友達と仲良くなろうという企画を予定していたが、時間もなくて一切できなかった。こういうオンライン上での出会い場を創出する工夫は出来なかったと感じている。この点は反省しなければならない点だと思う。もし、ご覧いただいて、感想等ありましたら Google Form 上から投稿していただければと思う。

個人的には非常に密度の濃い2日間で、ドップリ疲れた。オンライン授業を受けている学生さんたちは、日々知らないことが出てくる授業を特に1年生などは朝から夕方まで受けていると思うと、ゾッとする。2日間で辛いのだから、週5日も真剣に人の話を聞き続けるのは難しいだろう。そんな中、日々の授業は続いていく。一大学教員として、この状況の中で何をすべきかということを考えさせられる。そんな中、本セミナーシリーズが皆さんの何かしらのヒント、きっかけになればと思っている。

5月4日(火)

1限目:北川 拓也 w/ 成川 礼, 鹿野 豊 [対談形式]

2限目:登 大遊

3限目:中田 陽介

4限目:髙山 晶子

5月5日(水) 

1限目:平 理一郎 w/ 鹿野 豊 [対談形式]

2限目:成川 礼

3限目:道林 千晶

4限目:高田 修太

2021年4月1日

松無古今色 竹有上下節

3月31日をもって、慶應義塾大学量子コンピューティングセンターを離職しました。3年前、何もなかった34棟312号室(コモンスペース)を目の前に、高いパーティションが置かれた机と椅子だけからスタートした居室からスタートしました。IBMさんがこだわりをもって設計したコモンスペースのデザインを実際に工事していただいてる業者さんと毎日のように顔を突き合わせる毎日から必要な備品を揃えていくところまで、様々な方々の協力のもと、一通りのものを揃えることを突貫工事ではありましたが揃えることが出来ました。


研究的にはひょんなことから「乱数」の研究ということをスタートさせ、「量子乱数を用いて量子計算機の安定性を評価する」という研究の方向性を見出しましたが、なかなか大きな潮流を作れなかったことは個人の力量のなさが露呈したところだと思っています。

個人的には、生まれた病院がすぐそばにあり、「量子計算機」の概念を提唱した David Deutsch の論文の submit した年と生まれた年が同じだということで、「量子計算機と同じ年」ということをネタにしていましたが、今回のセンターはご縁が深かったのではないか?と思っております。

学内外に多大なるご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。また、色んな面でサポートしていただき、ありがとうございました。

さて、本日、4月1日より群馬大学大学院理工学府理工学基盤部門の准教授として着任しました。理工学部・理工学府の本体がある桐生キャンパスではなく、荒牧キャンパスという群馬県前橋市に研究室があります。1年次の基礎教育を担当するということで、何から何まで初めてずくしなのですが、僥倖にしてアカデミアの世界に残ることが出来たので、研究・教育ともに精進していきたいと思います。今後ともご指導・ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します。連絡先等に関しては、こちらをご覧ください。

2020年8月15日

戦後75年

2020年始め、まだ新型コロナウィルスが世界中には猛威をふるっていない頃、私はポーランドのクラカウというところにいた。その直前に研究会がフランスのマルセイユであり、マルセイユはフランス全土に拡大してしまったデモの影響で、空港に行けるか行けないか微妙なところだった記憶さえある。その研究会に参加していた友達が私に

「クラカウに行くなら、是非、アウシュヴィッツに行くといい。人生観が変わるよ。」

とアドバイスをしてくれた。2020年1月26日、綺麗な街「クラカウ」からツアーに参加し、アウシュビッツに行ってみた。

「#Auschwitz75」というハッシュタグが至るところにあり、そこで初めて気づいた戦後75周年。アウシュヴィッツもマスコミの方々がいらっしゃるのに、凄い静寂の中にある。広島の原爆ドームに行った時は、活気ある街並みから一転、重苦しい空気に包まれたような感じがしたが、アウシュヴィッツは敷地面積の広さからあたり全体で重苦しい空気が漂っているような気がした。






「学校で何が学べたのだろうか?」と思うことがあった。「目の前」にある現実は、そんなに素直に受け入れられることはなかったと思う。それは帰国した今でもそうだ。要所要所で写真を撮り、「目の前」の現実を直視する。学校では教えてくれない、けど、学ぶことがなければ知ることのない「歴史」。「歴史を繰り返さないための心」を育むということが重要なんだろうと思う。

第一キャンプでは、「Gas Chamber」という単語を何度も聞いた。「Chamber」自体は物理実験で良く使う単語であり、その後、何度か実験室見学をしたが、「Chamber」という単語を聞くたびに思い出す。それくらい強烈な出来事であった。

そして、だだっ広い第二キャンプ。1月のポーランドはとっても寒く、温かい飲み物で暖をとらないといけないほどだった。それでも、「自分の目で見てみたい」と思い、キャンプの中を見学する。


キャンプの中で、ユダヤ人たちが歌っていた歌。今でも歌の意味は分からなかったけど、その歌声が広大な敷地のキャンプの中で悲しく響いているのを今でも思い出す。


戦後75周年。「我々は何を学んできたのであろうか?」
友達が言ってくれた一言で、私の目の前に焼き付いた光景が「過去、現実に起こってしまったこと」であるということを知った。しかも、そう遠くない過去に。もし、私の身の回りでクラカウに行く人がいれば、私も友達のようにアウシュヴィッツに行くことをお勧めしたい。

2020年、新型コロナウィルスで世界中がパンデミックになってしまったが、今日、その1日くらいは「平和」について考えていきたい。

2020年8月13日

Alone Together

この言葉は MIT で技術社会論を専門とする認知心理学者のシェリー タークルの書いた本のタイトルである。彼女の講演はインターネット上を検索すれば山ほど出てくる(例えば、TED トーク)。


私は最近、オンライン上の数日間に渡る集中講義を受講してみた。集中講義の内容は私が今勉強してみたい内容であり、非常に楽しいものであった。だが、1日2時間講義の途中に訪れる「10分休憩」の時間は苦痛で仕方なかった。家で一人ポツンと画面越しの前で10分間無言になる。人数が多ければ、なかなか雑談をやる雰囲気にもならない。更には、誰かがしゃべってしまったら、誰かが喋れなくなってしまう。私自身、コンピュータから音楽をかけてみたり、それなりに「寂しくならない」方法を模索してきたつもりである。でも、この焦燥感みたいな感じは何なのだろうか?今のような「ソーシャルディスタンスの確保」が叫ばれている状況においては、オンラインでの講義というのは、Better Solution のような気がしているが、アナログの機能を補完するように設計された「テクノロジー」による「負の側面」はきちんと認識したい。おそらくこれは教育テクノロジー(EduTech) 以外にも言えることなのだろう。先日、少し紹介した「アナログの逆襲」という本の中に、「テクノロジー過信」による「負の側面」に関しては様々な具体例をもって示されている。

また、新型コロナウィルス拡散防止策により、2020年度後半も「オンライン講義」の機会が減ることはないように思える。もちろん、「オンライン講義」によってプラスになった側面も沢山ある。例えば、「いつでも、どこでも」学べる環境というのが、インターネット環境を整えれば実現できることを示してくれたようにも思える。ただし、これは今までの講義の「保管」or「代替」という訳ではなく、「新しい教育方法」の手段の一つではないだろうか?オンラインの向こう側で、一人一人が「学びたい」という意欲に馳せ、同じ想いを共有している時は良いだろう。ただ、「学びたい」というきっかけを与えてくれる「体験」がどこまで出来るのだろうか?「オンライン講義」の時代に考えなければならない大きな課題なのではないだろうか?と思う。

最後に、戦前のブロードウェイで上映されていた「Flying Colors」の中で歌われていた「Alone Together」の Youtube 楽曲を聞きながら、物思いにふけたいと思う。

2020年7月24日

ラインナップされた道具


「道具」を使う人もいれば、もちろん「道具」を作り出す人もいる。どちらが欠けてもいけないと思う。そのバランスはとても重要で、別に「道具」によって産まれる「新しい思考」や「新しい需要」があるのと同時に、今必要だと思う「道具」もある。使い手と作り手の共作になるのではないか?と思っている。また、皆のためにある「道具」もあれば、その時だけ必要不可欠なパーソナライズされた「道具」もあると思う。その時々によって、「道具」に求められることは変わるし、その使用法も変わってくるであろう。

「道具」の使い方を色んな人から学ぶということは非常に良いと思う。もう少し前のことになってしまったが、とある学生さんから「オンライン授業」の出方というのを教わった。私自身にとってみれば、1つのデバイスの前で1つの授業を見るというのが普通だと思っていたが、彼の道具の使い方は違った。同時に複数の授業を立ち上げて、面白そうなものだけの音声をONにするのだと。そのような発想は自分自身の中には無かったので、早速、自分自身でもやってみた。私の場合、教えてくれた彼とは最大3つまでということが分かったが、自分なりの「道具」の使い方を会得するというのはとても重要だと思う。

ただ、「道具」を作り出そうとしている人にとってみれば、どんな「道具」を作るか?ということが鬼門であろう。以前作っていた「道具」を見ながら、特定の性能だけを磨き上げるという発想もあるであろう。しかし、これだけが「道具」づくりではないと思う。みんなが作りたくなるような「道具」を想像し、創り出すということの方がもっと面白いのではないか?と思う。そうなると、これまでの「道具」との性能比較はしなくても良いではないか?だって、どのような使い方をされるのか?ということに関しては未知数なのだから。だからこそ、「道具」は色々とそろえるのが良いのだと思う。適宜、出くわした問題に応じて「道具」を選択できるように、常に準備し続けられる「道具」を作ることこそ、本当に必要なことなのではないだろうか?

2020年7月20日

道具の使い方

出来ることが増えてくると、必然的に使える「道具(ツール・技術)」も増えてくる。何かあっても、「道具」を使って何とかまとめたりすることが出来るような気になる。しかし、一体、「道具」は我々を守るためだけにあったのであろうか?

最近、コンピュータの歴史を調べる機会が多く、そんな中で「思考のための道具―異端の天才たちはコンピュータに何を求めたか?」およびその update 版?「新 思考のための道具 知性を拡張するためのテクノロジー ― その歴史と未来 」という本に出くわした。丁寧に取材を重ねた形でまとめられた本であり、コンピュータの歴史を知るにはうってつけの本であった。この本のタイトルにあるように、「道具」は「何かの目的のため」になくてはならない。そして、適切な「道具」を選択し、適切に使うことで「道具」の本来の威力を発揮するのであろう。普段の生活の中では、適切な道具を知らず知らずのうちに選択している。少しばかりの要件があり、「メール」を打つ。書くのが面倒だからという理由で「電話」をする。その時々によって、適切な「道具」の選択を知らず知らずのうちにやっている。

ただ、「思考のための道具」をきちんと選択したことがあるだろうか?自分自身の思考を深めるために、どのような「道具」が必要か?ということはあまり考えられていない気がする。しかも、「思考」は自分の体一つで出来ると思うからであろうと思う。自分の体一つで出来るものほどこそ、なかなか体に染みついた習慣を変化させることは難しいと思う。それを助けてくれるのが「道具」なのではないだろうか?どうやったら、自分自身の思考を深めることが出来るのか?を今一度考えてみる良い機会なのかもしれない。

暗号解析機 @ Bletchley Park

2020年7月19日

再び「学ぶ」勇気


今からちょうど1か月前に、「学び」についてのブログを書いた。現在、オンライン授業で様々な観点から「教育体制の再構築」への模索が始まっているように感じる。私自身、このような取り組みは現在のような異常事態において、良い試みなのではないか?と思う。ただ、一方で、「教育のやり方を変える」というコンテクストでは、今までの「授業の仕方」や「教科書の内容」が悪者扱いされるケースも多い。単純に比較をすることで、「教育体制の再構築」に関する論点を明確化しやすいという反面、今までの「授業の仕方」や「教科書の内容」そのものの評価というのがきちんとされているのか疑わしい。私個人としては、これまでになされてきた「教育」そのものが悪かったのか?と思うと、少なくとも私が受けてきた教育はそんなに悪くなかったのではないか?と思っている。私の立場に一番近い、大学の授業を例に、初年次くらいを想定した「授業」について考察してみたい。
注:私自身は大学教員ではあるものの、授業を担当しているわけではないことに注意されたい。

大学の初年次の「授業」内容は、何となく変わり映えのしないものが多いように感じる。特に、所謂、理系と呼ばれる学問を学ぶ場合、「知っておくべき」内容というのが非常に多い。大学に入学した頃には全く意味の分からなかった科目も多いと感じる。そして、私の場合は、授業にそのうち出席しなくなって、自分で勉強を始めていた気がする。自分自身を養護するわけではないが、大学での「授業」の意義というのは、「学び」を日常化するというのが大きな使命なのではないか?と思う。歯を磨くのと同じように、意識しなくても「学ぶ」姿勢を身につけることを、それぞれの科目を通じて学んでいるのではないだろうか?その上で、「学ぶ」姿勢が習慣化されていない人においては、半ば強制的に「学ぶ」姿勢を「授業」という定期的にあるものを通じて、習慣づけていくことが出来るのかもしれないと思う。「授業」に出席することが目的ではなくて、「学ぶ」姿勢が身につけば良いのではないだろうか?私自身、ティーチングアシスタントとして大学院生時代に教壇にたっていたが、大学1年生の「基礎物理学演習」という科目の中で、「学ぶ」環境づくり(学びあえる友達をつくる)ということを意識して授業をしていたが、それは「学ぶ」姿勢を習慣づける意義があったのではないか?と思っている。

それでは、(ある意味、つまらない)「科目の内容」についてはどのように考えるべきなのだろうか?学部の前期課程についての「教育内容」というのは、私個人の感想では、授業を受けたその時点では意味は分からないかもしれないけど、将来、何かで困った時に、「戻ってこられる」ポイントを作ることなのだと思う。私自身も論文執筆過程で、学部の授業で習ったことが分かっていなかったと思い、「線形代数」や「微分積分」の1年生向け教科書を復習したりしたことがある。(というより、そんなことが頻繁である。)「力学」や「電磁気学」を何度勉強しても、新しい発見があるように思えるし、様々な視点からみると、更に面白く内容を理解できているように思える。ただ、30歳も超えて、今さら大学1年生の「教科書」を手にとり勉強するという姿は何とも恥ずかしい。だからこそ、そこには「学び直す」勇気が必要なんだと思う。