August 15, 2020

戦後75年

2020年始め、まだ新型コロナウィルスが世界中には猛威をふるっていない頃、私はポーランドのクラカウというところにいた。その直前に研究会がフランスのマルセイユであり、マルセイユはフランス全土に拡大してしまったデモの影響で、空港に行けるか行けないか微妙なところだった記憶さえある。その研究会に参加していた友達が私に

「クラカウに行くなら、是非、アウシュヴィッツに行くといい。人生観が変わるよ。」

とアドバイスをしてくれた。2020年1月26日、綺麗な街「クラカウ」からツアーに参加し、アウシュビッツに行ってみた。

「#Auschwitz75」というハッシュタグが至るところにあり、そこで初めて気づいた戦後75周年。アウシュヴィッツもマスコミの方々がいらっしゃるのに、凄い静寂の中にある。広島の原爆ドームに行った時は、活気ある街並みから一転、重苦しい空気に包まれたような感じがしたが、アウシュヴィッツは敷地面積の広さからあたり全体で重苦しい空気が漂っているような気がした。






「学校で何が学べたのだろうか?」と思うことがあった。「目の前」にある現実は、そんなに素直に受け入れられることはなかったと思う。それは帰国した今でもそうだ。要所要所で写真を撮り、「目の前」の現実を直視する。学校では教えてくれない、けど、学ぶことがなければ知ることのない「歴史」。「歴史を繰り返さないための心」を育むということが重要なんだろうと思う。

第一キャンプでは、「Gas Chamber」という単語を何度も聞いた。「Chamber」自体は物理実験で良く使う単語であり、その後、何度か実験室見学をしたが、「Chamber」という単語を聞くたびに思い出す。それくらい強烈な出来事であった。

そして、だだっ広い第二キャンプ。1月のポーランドはとっても寒く、温かい飲み物で暖をとらないといけないほどだった。それでも、「自分の目で見てみたい」と思い、キャンプの中を見学する。


キャンプの中で、ユダヤ人たちが歌っていた歌。今でも歌の意味は分からなかったけど、その歌声が広大な敷地のキャンプの中で悲しく響いているのを今でも思い出す。


戦後75周年。「我々は何を学んできたのであろうか?」
友達が言ってくれた一言で、私の目の前に焼き付いた光景が「過去、現実に起こってしまったこと」であるということを知った。しかも、そう遠くない過去に。もし、私の身の回りでクラカウに行く人がいれば、私も友達のようにアウシュヴィッツに行くことをお勧めしたい。

2020年、新型コロナウィルスで世界中がパンデミックになってしまったが、今日、その1日くらいは「平和」について考えていきたい。

August 13, 2020

Alone Together

この言葉は MIT で技術社会論を専門とする認知心理学者のシェリー タークルの書いた本のタイトルである。彼女の講演はインターネット上を検索すれば山ほど出てくる(例えば、TED トーク)。


私は最近、オンライン上の数日間に渡る集中講義を受講してみた。集中講義の内容は私が今勉強してみたい内容であり、非常に楽しいものであった。だが、1日2時間講義の途中に訪れる「10分休憩」の時間は苦痛で仕方なかった。家で一人ポツンと画面越しの前で10分間無言になる。人数が多ければ、なかなか雑談をやる雰囲気にもならない。更には、誰かがしゃべってしまったら、誰かが喋れなくなってしまう。私自身、コンピュータから音楽をかけてみたり、それなりに「寂しくならない」方法を模索してきたつもりである。でも、この焦燥感みたいな感じは何なのだろうか?今のような「ソーシャルディスタンスの確保」が叫ばれている状況においては、オンラインでの講義というのは、Better Solution のような気がしているが、アナログの機能を補完するように設計された「テクノロジー」による「負の側面」はきちんと認識したい。おそらくこれは教育テクノロジー(EduTech) 以外にも言えることなのだろう。先日、少し紹介した「アナログの逆襲」という本の中に、「テクノロジー過信」による「負の側面」に関しては様々な具体例をもって示されている。

また、新型コロナウィルス拡散防止策により、2020年度後半も「オンライン講義」の機会が減ることはないように思える。もちろん、「オンライン講義」によってプラスになった側面も沢山ある。例えば、「いつでも、どこでも」学べる環境というのが、インターネット環境を整えれば実現できることを示してくれたようにも思える。ただし、これは今までの講義の「保管」or「代替」という訳ではなく、「新しい教育方法」の手段の一つではないだろうか?オンラインの向こう側で、一人一人が「学びたい」という意欲に馳せ、同じ想いを共有している時は良いだろう。ただ、「学びたい」というきっかけを与えてくれる「体験」がどこまで出来るのだろうか?「オンライン講義」の時代に考えなければならない大きな課題なのではないだろうか?と思う。

最後に、戦前のブロードウェイで上映されていた「Flying Colors」の中で歌われていた「Alone Together」の Youtube 楽曲を聞きながら、物思いにふけたいと思う。

July 24, 2020

ラインナップされた道具


「道具」を使う人もいれば、もちろん「道具」を作り出す人もいる。どちらが欠けてもいけないと思う。そのバランスはとても重要で、別に「道具」によって産まれる「新しい思考」や「新しい需要」があるのと同時に、今必要だと思う「道具」もある。使い手と作り手の共作になるのではないか?と思っている。また、皆のためにある「道具」もあれば、その時だけ必要不可欠なパーソナライズされた「道具」もあると思う。その時々によって、「道具」に求められることは変わるし、その使用法も変わってくるであろう。

「道具」の使い方を色んな人から学ぶということは非常に良いと思う。もう少し前のことになってしまったが、とある学生さんから「オンライン授業」の出方というのを教わった。私自身にとってみれば、1つのデバイスの前で1つの授業を見るというのが普通だと思っていたが、彼の道具の使い方は違った。同時に複数の授業を立ち上げて、面白そうなものだけの音声をONにするのだと。そのような発想は自分自身の中には無かったので、早速、自分自身でもやってみた。私の場合、教えてくれた彼とは最大3つまでということが分かったが、自分なりの「道具」の使い方を会得するというのはとても重要だと思う。

ただ、「道具」を作り出そうとしている人にとってみれば、どんな「道具」を作るか?ということが鬼門であろう。以前作っていた「道具」を見ながら、特定の性能だけを磨き上げるという発想もあるであろう。しかし、これだけが「道具」づくりではないと思う。みんなが作りたくなるような「道具」を想像し、創り出すということの方がもっと面白いのではないか?と思う。そうなると、これまでの「道具」との性能比較はしなくても良いではないか?だって、どのような使い方をされるのか?ということに関しては未知数なのだから。だからこそ、「道具」は色々とそろえるのが良いのだと思う。適宜、出くわした問題に応じて「道具」を選択できるように、常に準備し続けられる「道具」を作ることこそ、本当に必要なことなのではないだろうか?

July 20, 2020

道具の使い方

出来ることが増えてくると、必然的に使える「道具(ツール・技術)」も増えてくる。何かあっても、「道具」を使って何とかまとめたりすることが出来るような気になる。しかし、一体、「道具」は我々を守るためだけにあったのであろうか?

最近、コンピュータの歴史を調べる機会が多く、そんな中で「思考のための道具―異端の天才たちはコンピュータに何を求めたか?」およびその update 版?「新 思考のための道具 知性を拡張するためのテクノロジー ― その歴史と未来 」という本に出くわした。丁寧に取材を重ねた形でまとめられた本であり、コンピュータの歴史を知るにはうってつけの本であった。この本のタイトルにあるように、「道具」は「何かの目的のため」になくてはならない。そして、適切な「道具」を選択し、適切に使うことで「道具」の本来の威力を発揮するのであろう。普段の生活の中では、適切な道具を知らず知らずのうちに選択している。少しばかりの要件があり、「メール」を打つ。書くのが面倒だからという理由で「電話」をする。その時々によって、適切な「道具」の選択を知らず知らずのうちにやっている。

ただ、「思考のための道具」をきちんと選択したことがあるだろうか?自分自身の思考を深めるために、どのような「道具」が必要か?ということはあまり考えられていない気がする。しかも、「思考」は自分の体一つで出来ると思うからであろうと思う。自分の体一つで出来るものほどこそ、なかなか体に染みついた習慣を変化させることは難しいと思う。それを助けてくれるのが「道具」なのではないだろうか?どうやったら、自分自身の思考を深めることが出来るのか?を今一度考えてみる良い機会なのかもしれない。

暗号解析機 @ Bletchley Park

July 19, 2020

再び「学ぶ」勇気


今からちょうど1か月前に、「学び」についてのブログを書いた。現在、オンライン授業で様々な観点から「教育体制の再構築」への模索が始まっているように感じる。私自身、このような取り組みは現在のような異常事態において、良い試みなのではないか?と思う。ただ、一方で、「教育のやり方を変える」というコンテクストでは、今までの「授業の仕方」や「教科書の内容」が悪者扱いされるケースも多い。単純に比較をすることで、「教育体制の再構築」に関する論点を明確化しやすいという反面、今までの「授業の仕方」や「教科書の内容」そのものの評価というのがきちんとされているのか疑わしい。私個人としては、これまでになされてきた「教育」そのものが悪かったのか?と思うと、少なくとも私が受けてきた教育はそんなに悪くなかったのではないか?と思っている。私の立場に一番近い、大学の授業を例に、初年次くらいを想定した「授業」について考察してみたい。
注:私自身は大学教員ではあるものの、授業を担当しているわけではないことに注意されたい。

大学の初年次の「授業」内容は、何となく変わり映えのしないものが多いように感じる。特に、所謂、理系と呼ばれる学問を学ぶ場合、「知っておくべき」内容というのが非常に多い。大学に入学した頃には全く意味の分からなかった科目も多いと感じる。そして、私の場合は、授業にそのうち出席しなくなって、自分で勉強を始めていた気がする。自分自身を養護するわけではないが、大学での「授業」の意義というのは、「学び」を日常化するというのが大きな使命なのではないか?と思う。歯を磨くのと同じように、意識しなくても「学ぶ」姿勢を身につけることを、それぞれの科目を通じて学んでいるのではないだろうか?その上で、「学ぶ」姿勢が習慣化されていない人においては、半ば強制的に「学ぶ」姿勢を「授業」という定期的にあるものを通じて、習慣づけていくことが出来るのかもしれないと思う。「授業」に出席することが目的ではなくて、「学ぶ」姿勢が身につけば良いのではないだろうか?私自身、ティーチングアシスタントとして大学院生時代に教壇にたっていたが、大学1年生の「基礎物理学演習」という科目の中で、「学ぶ」環境づくり(学びあえる友達をつくる)ということを意識して授業をしていたが、それは「学ぶ」姿勢を習慣づける意義があったのではないか?と思っている。

それでは、(ある意味、つまらない)「科目の内容」についてはどのように考えるべきなのだろうか?学部の前期課程についての「教育内容」というのは、私個人の感想では、授業を受けたその時点では意味は分からないかもしれないけど、将来、何かで困った時に、「戻ってこられる」ポイントを作ることなのだと思う。私自身も論文執筆過程で、学部の授業で習ったことが分かっていなかったと思い、「線形代数」や「微分積分」の1年生向け教科書を復習したりしたことがある。(というより、そんなことが頻繁である。)「力学」や「電磁気学」を何度勉強しても、新しい発見があるように思えるし、様々な視点からみると、更に面白く内容を理解できているように思える。ただ、30歳も超えて、今さら大学1年生の「教科書」を手にとり勉強するという姿は何とも恥ずかしい。だからこそ、そこには「学び直す」勇気が必要なんだと思う。

July 1, 2020

「憧れ」の日常化

「憧れの最近接領域」
この言葉は、ロシアの心理学者レフ・ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」を教育のコンテストの中で発展させた同志社女子大学名誉教授の上田信行先生の言葉である。
「あなたがいるから頑張れる」「君と一緒だからもっと上を目指せる」。他者の存在が、自分の可能性を広げていく、そうした希望を込めて、僕はそう呼んだのです。(プレイフル・ラーニング p.83)
とコアなアイディアが書いてあるように思える。私自身、上田先生とは MIT で研究していた時に MIT Media Lab の中でお会いした。フットワークの軽快さと貫かれている信念のようなものがうまくミックスされ、一緒にお話をしていると、とにかく勉強になるし、楽しい。


一方で、「憧れ」が「憧れのまま」ではないだろうか?私自身、MITに行き、ボストンに住む前の「アメリカ」と住んだ後の「アメリカ」のイメージは180度変わってしまったというくらい変わっている。私自身は、「アメリカへの憧れ」はあまり無かったが、「海外に住むことへの憧れ」はあったように思える。ただ、「住めば都」という諺があるように、「案外、普通」という感覚に陥った。しかし、「憧れの存在」が何か同じ「人間」のやったことではないというような、「近づけない存在」として捉えてしまっているのではないだろうか?そんな感覚に陥っていることはないだろうか?たまに、「教科書の人」と言われている過去の偉大なる研究者が「天才的」に描写されることがあるが、「偉大なる業績を残した研究者」も案外、人間味があるということは伝記を通じて学んだり、実際に生きているのであれば、会ってみたりすると分かる。

「見えないもの・見ていないものを盲目的に憧れる」ということは、何となく物事の本質を表している気がしてならない。

June 19, 2020

「学び」という日常

この世には、失敗もなければ偶然もない。すべての出来事は、私たちに与えられた恵み、何かを学ぶ機会なのだ。

エリザベス キュープラー ロスという精神科医の格言である。今回の COVID-19 対策での在宅勤務や在宅学習は、色々なことを一時的に機能をストップさせたり、低下させて、普段考えないことを考える時間がとれた方も多かったのではないかと思う。

私自身、普段ではなかなか出来なかった自分自身と向き合う時間が増え、雑談に代わるものとして、毎日、何かしらの本を読み、こんな状況だけど、色んなことを勉強できたと思っている。

また、日々、「学びを止めるな」というスローガンのもと、「教育」に注目が集まっていたのも事実のように思える。オンライン化できる部分はして、「学ぶ機会」をというものも多かったが、最終的にはどのようなことを「学んで」欲しいのだろうか?

「学ぶ」という事は、学校に行き授業を受けることでも、友達と話すことでも、そのあたりを散歩している時でも出来る。日常生活から仕事をしている時まで、「学び」の機会は落ちている気がする。それを「学ぶ」か「学ばない」かを判断するのが自分自身であるということだけなのではないか?そうすれば、「学べない」時はきっとないだろう。ただ一方で、何かをやっていこうとする上で、「学ばなければならないこと」ということはあるであろう。そのような「学ぶ機会」は最低限提供されていなければならないのではないだろうか?

コロナ禍において、「大学の役割」とは何だろうか?ということを考える機会は多くなったような気がする。また、そのようなオンラインシンポジウムなども開催されるようなことが多くなったように思える(ただ、目にする機会が増えただけかもしれないが)。「学び」が日常化すれば、決して、新しいこと(研究分野)を勉強しようという抵抗もなくなるのではないだろうか。「学ぶ日常」をトレーニングする場として「授業」というのは機能している部分があるのではないだろうか?

June 10, 2020

「言葉」にする弱み

言わぬが花

という諺は、「言わない」ことに対する美学が詰まっている。

研究者の最終的なアウトプット形態は今も昔も変わらず、「論文」と言われる「紙」ベースのものに「言葉」を紡ぐことである。メディアアートなどの「作品」を実際に展示するようなアウトプットの仕方に対する模索も続いているように感じられる。だがしかし、このように「作品」を展示するものを良しとしている学術領域でさえ、結局のところ、「研究者の言葉」で書かれた「論文」で審査されている。論文に書かれたことを重視する研究者にとって、「言葉の重み」を感じることは良くある。このあたり考えは、「異化の勧め」のポストに纏めてある。

一方で、直接的に「言わない」「言葉にしない」というのは大きな力があるのだと感じることもある。COVID-19 の緊急事態宣言で再び取り上げられるようになった「日常」という言葉ではあるが、「日々考え続けていること」「日々やっていること」は当たり前になりすぎていて、「言葉」にしない。最も、「言葉」にはしないけど、皆、同じことを考えながら行っているという集団は、「言葉」にするよりも強固なものを感じる。

提供

私は昔、ボストンに住んでいた。ボストンに行くことになった経緯は突発的なことが重なっていったことではあるが、アメリカに住んでみる前までは、「アメリカに住むのは嫌だな」と正直思っていた。その理由は単純であった。

The United States is the number one. 

という考え方が嫌いだったからである。確かに統計的なデータを見れば、当時、アメリカという超大国は「ナンバーワン」であることが多い。ただ、「皆まで言うな」と思っていた(というより、今でもそう思っている)。実際、ボストンに暮らし始めてみると、先の考え方はアメリカの表面的な側面を捉えているに過ぎないということを感じることが多かった。実際に、先の考え方を表現している場面に出くわすのは、大統領選か新しくアメリカに来た人と会った時に「何故、アメリカに来たのですか?」という質問の答えの時くらいで、日々、暮らしていく中で「The United States is the number one.」という言葉を聞いたことはほとんどなかったのではないかと思う。また、アメリカは何でもかんでも「言わない」といけないと誤解されることも多いが、何でもかんでも「言えば」いいというものではないということを知った。こうして、ボストンを去る頃には、「ボストンはまた戻ってきたいと思う場所」になっていた。あれから10年ほどが経ち、アメリカは様変わりしてしまったと感じる日々も多いが、「言葉」にしていない「強さ」があるのだろうと思っている。

June 1, 2020

新しい時代のアナログとは?

今年度より京都大学情報学研究科の研究科長をなさっている河原達也さんが書かれた「COVID-19 パンデミック下における情報学の展開」を読んだ。オンライン時代の先陣をいくと言って過言ではない「情報学研究」の視点から、COVID-19 パンデミック後の世界観までを描いている見事な論考であると思う。

このパンデミックの前まで AI ブームと言われていましたが、感染の動向や感染者の症状を予測する AI も、どういう治療をすればよいか判断する AI も開発されていません。しいて言えば、感染者の行動履歴を追跡しておいて、濃厚接触者を同定するソフトはありますが、国家権力が強くない国では運用が困難です。これほど世界中に大量の事例サンプルがあるにも関わらず、専門家の直観で判断されているように思われます(それを否定するものではありません)。

この部分が私の最も賛同できる部分である。現在の「情報技術」の限界について、内部の専門家の意見から発せられたという意味も重要である。だからこそ、今後、「ローマは1日して成らず」という諺があるように、しっかりとした準備を行っていけば「情報学が貢献出来る可能性」があるという重要なメッセージがこめられていると私には思う。

しかし、「情報」というと「デジタル」な事を思い浮かべることが多い。私自身の「情報学」の理解では、インプットとアウトプットの関係性に対して、中身をブラックボックスにしたまま「定量的な尺度」を与える学問なのだと思っている。「データ圧縮の限界(者オノンエントロピーの起源)」「通信容量の限界(通信路符号化定理)」など、情報科学の基礎と知られるものは、「「情報」とは何か?」ということを問題にするよりも、「定量的に表現出来る情報」とは何か?ということを考えていたように思える。個人的には恥ずべきことであるが、情報科学の基礎をきちんと勉強したのは大学院卒業以後のことである。マクスウェルの悪魔に関する論文を一緒に執筆している際にシャノンの原論文を読んで勉強した。

一方で、「情報社会」の基盤を支えているのは「アナログ」の要素抜きでは成り立たない。我々が取り扱える部分(インターフェイス)はデジタル仕様になっていても、最終的には「アナログ」な部分に支えられている。近年、「ポストデジタル」時代を想像する本が増えてきたように思える。例えば、「アナログの逆襲」という本の中では、「アナログ的な体験」の重要性について述べている。また、そのような具体的な取り組みに関して紹介されている。一方で、「アフターデジタル」で主に展開されているように「極限まで」オンライン化していく世界像を描いている本もある。そんな中でも「アナログ的思考」が若干垣間見える部分があって面白い。自粛期間で「繋がっていない」苦しさを感じる機会も多かったが、一方で、自分自身を見つめ直す良い時間であったように思える。

何かと繋がっているよりも、身体的に感じられる方が重要なのではないか?

ということに気づいた2ヶ月間であった。今までの研究活動を振り返ってみると、「地に足のついた」研究に憧れを感じる。きっとこれも「アナログ回帰」の一端なのかもしれない。


May 30, 2020

グッドハートの法則


あまり聞き馴染みのない法則であると思う。私がこの法則を知ったのは、昨年、GigaScience という雑誌に掲載された「学術論文統計」における分析がなされた論文のタイトルに書いてあったからである。論文の主旨はメタ分析科学の論文で非常に読み応えがあると同時に様々なことについて考えさせられた。グッドハートの法則とは、

Any observed statistical regularity will tend to collapse once pressure is placed upon it for control purposes.

という経済学の経験法則であり、ルーカス批判キャンベルの法則とも類似性があるということが知られているらしいがあまり詳しくは知らない。

ただ、これを我々がやっている自然科学研究に適用みようとする。自然現象の本質に迫ろうとすればするほど、コントロールされた状態に自然現象を押し込めたくなる。たまにコントロールサイエンスと呼ばれる。一方で、自然現象を知ろうとするには非常に良い手法な気がしており、「対象群」と「コントロール群」との差において、示したい「概念」「法則性」をサポートする結果はどの科学技術分野にもある研究スタイルだと思っている。しかし、コントロールサイエンスが極限まで行き過ぎると、結局のところ、「自然の何を理解したかったのか?」ということが分からなくなってしまう。そんな状態に陥ってしまった学問分野は少し考えただけでも沢山浮かんでくる。自然の「ありのまま」の姿を浮き彫りにしたいはずであった私が専門とする「計測科学」においても、同じようなことにならないように気をつけなければならない。

コロナ禍において顕著になってきたことのように思えるが、様々なことは「統計データ」を見て判断されているように感じることがあるし、「統計データ」だけを見て賛否を明らかにしなければならない状況というのが沢山あるように思える。ただ一方で「統計的な指標だけ」に頼った判断というのは、愚かな結果を生じやすいというのが歴史の教えてくれることではないだろうか?

May 27, 2020

結果の不平等 / 機会の平等

r (= 資本収益率) > g (= 経済成長率)
 
一時、話題になったフランスの経済学者であるトマ・ピケティの「21世紀の資本」の最終的な結論である。200年以上の膨大な資産や所得のデータを積み上げて分析した(使用している統計データは全てウェブサイトに公開されている)ということで、分量が極めて多く、正直、書斎のインテリアとしての「本」の価値があるような本だと思われる。一方で、専門的な見地から賛否様々であるということはウェブサーフィンをすればすぐに分かることであるが、「経済統計データを分析した」という評価には値するのだと思う。ただし、上記の不等式は賛否はあれど、「結果の不平等」さに関して言及しているのだと理解している。誰かが評価したり、評価基準を作ってしまう以上、「結果の不平等」というのは解消されないのだと思う。なので、「結果」だけを見てしまうというのは、いかがなものか?という論調が出てくるのも理解出来る。

COVID-19 の緊急事態宣言は先日解除されたが、未だに多くの教育機関では同じような授業スタイルが展開出来なく、オンライン授業に移行したり、それが様々な制約のために出来なかったりしているのが現状だと思う。また、「9月入学」の議論が再燃し、その議論の過程の中でも著名になった中室牧子さんの書かれた「「学力」の経済学」においても「統計的なデータ(=結果)」から判断すべきであるということが本質的には書かれており、5年前くらいから「データサイエンス」の重要性が様々な分野においても言われ続けてきたように思える。

ただ、緊急事態の中で「結果(=統計データ)」に関して妙に敏感になるのは何故なのだろうか?原発事故の際の放射線量、COVID-19 のPCR検査の陽性者数、どちらもハードウェアエラーが含まれているにも関わらず、「統計的なデータ」で判断されてしまう。このあたりは私が習ったような単純な「マクロ経済学」の知識だけでは太刀打ちできないのだと思うし、「行動心理学」や「社会心理学」といったパーソナルな部分との関連性の中に答えが見いだされることが多いように感じている。

一方、「結果の不平等」さ故に、「機会の平等」が保たれていないと判断するのは拙速な気がする。この「機会の平等」は特に「教育」において重要視される傾向にあると思う。コロナ時代のオンライン教育実施論で話題にのぼっている「教育格差」が拡がってしまうという論調は、本来は、様々な制約から「機会の不平等」の議論であるにもかかわらず、「結果の不平等」に目がいってしまっていると思う。また、「教育」の次は「ダイバーシティー」に関する議論であるように思える。これは、とある国際会議において「東京宣言」と呼ばれる文章の策定に関わった際に勉強をした 国連持続可能な開発目標 (SDGs) の目標の中にも組み込まれていると個人的には理解している。また、「No one left behind」というコンセプトは、「機会の平等」についての担保をしようという心がけなのだと理解している。ただ、「機会の平等」は統計的な指標では一概には測りにくいが故に、どのように品質を保証していけば良いかが分かりにくいのも問題である。また、全てのことで「機会の平等」が担保されるべきのだろうか?という論点もあるであろう。何を「最低限」担保しなければならない「機会の平等」であるのかを今一度、考えてみる機会になっているのだと思う。


May 22, 2020

グローカル

Think Globally Act Locally 
「地球規模で考えて、地域で行動しよう」

COVID-19 の新型コロナウィルス対策では、「感染症」という地球規模の拡大を考えて、経済行動などは厳しく制限され、「水際対策」などといった国境移動の制限などにより、実質的に「地域で行動」せざるを得なくなっている。奇しくも、国連が定めた持続可能な開発目標(SDGs) の目標の中にも、

3.3 2030 年までに、エイズ、結核、マラリア及び顧みられない熱帯病といった伝染病を根絶するとともに肝炎、水系感染症及びその他の感染症に対処する。

とあり、我々の目指した目標が何だったのだろうか?ということが問われている。本来、グローカル (Glocal) 人材とは、最初にあげたコンセプトを体現できる人間であったように思う。この COVID-19 の自粛生活は Glocal 状況を強制的に作り出してしまったのではないか?と思っている。

日本においては関東地域以外においては緊急事態宣言が解除されてきた中で「新しい生活様式」が提唱され、今後、「変わらなければならないもの」、「変わっていくもの」、「変わらないもの」に大別されていくのであろう。確かに緊急事態宣言下や強制ロックダウンをしている中では、COVID-19拡散防止という地球全体の課題に対して Act Locally を体現してきたのだと思う。

リモートワークでの仕事が慣れてきた皆さんは「オンライン会議」が増えてきたのだと思います。ただ、テクノロジーで乗り越えられない壁がいくつかあると思っている。今回、顕著になってきたのは「時差」の問題である。

「科学の普遍性」があると思われる研究分野においては、本来的に学術が出来る場所は関係ないと思われている。もちろん研究環境によって成果の出やすいもの、出にくいものがあるのは事実だと思うが、研究者自身の能力・努力・運にもよるところが多いと思う。こういう事態になると、「オンライン会議」は様々なところで立ち上がり、一部ではあるが、「オンラインセミナー」のまとめサイトなるものが立ち上がっている。気軽に出席出来るという利点や「録画機能」を使い、後で最新の研究動向をチェック出来る機会も増えてきた。

一方で、「セミナーの開始時間」はあまり変わることがない。研究者人口が多いのか分からないが、きちんとオンラインセミナーが整備されているのは良くも悪くも「欧米中心」である。そのため、開始時間が日本時間で深夜になることは日常的である。そのため、リアルタイムに出席している日本人研究者をあまり見かけることがない。これ自体は仕方ないことであるが、欧米中心で学術動向が依然として推移している証左にも思える。科学技術大国になりつつある「中国」など日本との時差が小さな範囲で学術的にもアクティブなところが沢山あると思う。

歴史的な経緯があるのは事実であるが、「地政学的」な利点を最大限に活かすことが出来、真の「グローカル」人材になれる日は来るのだろうか?

May 18, 2020

異化の勧め


「異化」とは、ソ連の文学理論家であるヴィクトル・シクロフスキーが概念化・理論化したものである。そして、ノーベル文学賞を受賞して著名な大江健三郎が「小説の方法」の中で展開した文学理論の中で最も重要な文学理論として採用している。

日常・実用の言葉が『異化』されることによって、文学表現の言葉となる

と評しており、文章を媒介する表現者として非常に重要な概念だと思う。前述の「小説の方法」を読んでいると、小説を創作する上での「論理展開」の重要性が語られている。その一方で、「小説の面白さ」は単なる論理展開だけでは生じ得ないということも語られている。大江健三郎は、「異化」からの飛躍を「作家としての確信」という意味を込めていたように思える。

小説は人間をその全体にわたって活性化させるための、言葉による仕掛けである

とあり、「作家としての確信」もまた言葉が「異化」されることによって表現されている。この理論体系は、「研究論文」という「言語表現」を最終アウトプットとしている研究者による研究活動にも当てはまる。「作家としての確信」は、「研究者が得た着想・思考」と読み替えることが可能であり、それを「研究論文」という中で展開する。「論理展開」の明晰さというのは、研究論文を書く上で最も重要なものだと思われている。そのため、大学教育では徹底的に「これまでに知られている論理展開のやり方」を講義や演習で学ぶ。

個人的な体験談になるが、私が理系の進路選択にした理由は、「国語」「英語」の成績が伸びなかったからだと言って良い。中学時代に教科担当をしてくれた先生には、当時はまっていた「日本史」などの専攻に進むのだろうと思われていたほどだ。しかし、高校時代、全くといって良いほど「国語」と「英語」は出来なかった。「英語」は「国内にいれば、外国人と話す必要はない」と考えていた時期があり、特段、必要になることはないだろうと思っていた。また、「国語」では、「何故、筆者の気持ちを読み解かなければならないのか?」と「国語の問題を解くこと」が「国語」という教科であると考えていた時期がある。【「論理性」が全くないのではないか?】と思っていた。それが今では、1日のほとんどを「英語」と「国語」の教科書の目の前で過ごしているような生活であるので、驚くばかりである。そのため、大学入学後は本当に色々なレポートを書いてきた。そして、「文章を推敲する特訓」をするようになったのは、大学院時代の指導教員によるものであった。5年間弱の大学院教育の中で最も重要であったと思う教育は、「peer-to-peer による文章(=論文)推敲」に関する教育であった。これは、研究を直接的にせよ、間接的にせよ指導するようになった学生さんには「文章推敲」による体験をなるべく行ってもらうと思っている。

しかし、研究論文は単純なる論理の積み重ねでは面白くない。関わった本人でしか分からない「研究によって得た感覚」というのは、論理の積み重ねでは表現出来ない。そのため、論理展開は飛躍する。その論理の飛躍こそ、「研究の種」だったのではないか?と思える。それをこれまでの言葉を使って、その「研究の種」を大きく展開していく。もちろん研究テーマに依存するのだが、「ゼロをイチ」にしてきた論文には「異化」による飛躍が含まれているのではないか?と思う。一人の研究者として、そんな研究論文を人生で何本かは書いてみたいものである。

May 14, 2020

イカとスルメ


イカを見ずにスルメばかりを見る

とある研究者が発した「研究感」に対する批評である。「スルメ」となってしまった研究は妙に「美味しい」ところがある。スルメは日持ちもするのと同様に、標準的な教科書に掲載されるような内容であった日にはかなり長きに渡り、研究者、研究者を志す学生などを魅了し続けていくことになる。自分自身の研究が「スルメ」に昇華していくところを見てみたいと思う人は多くいると思う。多くの研究者が指摘していることであるが、「1人にも読まれずに忘れ去られていく研究論文」が世の中にはあふれている。そうなるまいと、研究者は日々努力をし、自分自身の研究の魅力を最大限に発揮させようとする。

また、「美味しい」と思う感覚も人それぞれである。万人に必ず美味いという食材がないのと同様に、万人が認める研究というのはないように思える。多くの場合の研究論文は、「論文誌」というものに掲載されるために、peer review (査読)と呼ばれるシステムにかけ審査される。「美味しい」かどうかをチェックするための機構が存在しているということになる。ただ、不思議だと思うのは、「まずい」と思うものはだいたい同じであるということである。「美味しい」は千差万別なのにもかかわらず、「まずい」と思うネガティブな感覚は一致している。研究でも同じだと思う。とある研究論文の査読をしている時に、「絶対にダメだろう」と思うものは、大概、何か共通したものを持っている。

さて、「生きたイカ」は「スルメ」とはまた別の格別なる美味しさがある。しかし、イカの場合、美味しさがそう長くは続かない。そのため、「旬」というものが存在しているのだ。研究にも同じようなことがいえる。「研究の旬」というものがあるような気がしてならない。旬なものがいつもに増して美味しいの同様に、研究が油が乗っている時がある。きっと20世紀前半の物理学というのは、「旬」だったに違いないと思うことが物理を勉強していると良くある。今では「スルメ」になってしまった物理学の形成史は人間ドラマがあって非常に面白いものがある。一方で、作り出された「旬」もある。周りが「美味しい」と言っていると、何故か「美味しく」感じることがある。また、同じものを「食べる環境」を変えた時に、「美味しさ」が変化するときがある。食材と舌との化学反応としては同じはずなのに、「何故?」と思うことがある。作り出された雰囲気の中での「美味しさ」というのは、どのように論理的に説明が出来るのか知りたいものである。研究者は膨大な食材の中から自分の嗅覚で何が自分自身の中で「美味しいもの」なのかを探し続ける「探検美食家」のような気がしてならない。

May 12, 2020

原典主義

人生旧を傷みては千古の替らぬ情の歌
土井晩翠 「万里の長城の歌」

書き物をしていると良く分からなくなることがある。そんな時、参考にしている教科書に戻る。ただ、どうしてこんな発想が出てきたのか分からない。教科書は「整理されすぎている」と思う時がある。整理されているが故に勉強しやすいし、体系化されていることで先人が重ねてきた苦労をしなくて良いことがある。

ただ、いざ自分自身で一からやってみようとすると出来ない。体系化されていることを「勉強」することは出来ても、これからの人たちが「勉強する」ための素材を提供できないことに気づく。個人的には、「勉強」と「研究」の違いだと思っている。そのため、研究では四苦八苦することになる。どんな研究であれ、あまり苦労しなかったという話は聞かない。でも、何かしらの羅針盤みたいなものが欲しい。そのために、自分自身の研究に関係する論文を読みあさる。研究論文は研究者にとっての成果物であるため、その中に研究者自身の想いを詰める。文章で何かを伝える能力は、研究者にとって必須なのではないか?と思うことさえある。しかし、高校生の頃、ヘビ型ロボットの研究で著名な東京工業大学の広瀬茂男さんの講演の中で同じことを言っていたが、当時は全く分かっていなかったと思う。

Cet âge est sans pitié (that age knows no pity)

このフランスの諺が妙にしっくりくる。最近になって、大学生ぶりに「思考の整理学」を読み直したのだが、著者の洒落っ気たっぷりの文章で展開される「研究の方法論」が妙にしっくり来ている。大学生になりたての頃はまだ研究論文を書くということが何であるのかの実感がなかったからであろう。同じ時期に読んだ「知的生産の技術」のほうが非常に明瞭で良いと思っていた。「読書は自分を映す鏡である」とは良く言ったものだ。

さて、研究の羅針盤は過去の研究論文に学ぶしかないところがある。研究論文とは一口に言っても様々なタイプがあるのだが、研究分野を作り出す契機となった論文はあるはずである。「ゼロからイチ」を作ったエポックメイキング的な論文である。そのような論文は多かれ読みにくかったりするのであるが、当時の世界観に浸ってみると、「研究者の情熱」のようなものが感じられる。その情熱を読みとり、自分自身の研究活動に昇華させていくのが難しい。私がこれまでに書いてきた研究論文できちんと出来ているかと言われると難しいが、なるべく私自身の「息吹」を研究論文の中にしたためようと思っている。

May 8, 2020

データダイエット

データダイエットへの協力のお願い:遠隔授業を主催される先生方へ(イラスト版) 出典:国立情報学研究所

このネーミングは、4月からの大学等遠隔授業に関する取組状況共有サイバーシンポジウム実行委員会という名義で「お願い」という形で出されました。その一行目は原理原則だけど、忘れやすいことを言っています。

情報通信回線は全国民が共有する有限の資源です。

「有限の資源」であるということを言っているのは、当たり前ですが非常に重要だと思います。「どれくらい出来るのか?」ということを突き詰めていく学問が、個人的には「情報科学」という学問分野になるのだと思います。通信容量に関しては、「情報科学の父」であるクロード・シャノンによって定式化されました。現在では、「シャノンの通信路符号化定理」と呼ばれており、理論的な限界値を「シャノン限界」と呼んだりしています。ある種の「情報」というものに対する「限界」を定めていくのが、情報科学の面白い点だと個人的には思っています。なかなか準備の進まなかった「授業のオンライン化」に対して、今回の「コロナ自粛」では一気にそのオンラインプラットフォームを活用していかなければならない状態になっています。すると、「オンライン上での渋滞」というのが発生し、「インターネット」という一見するとバーチャルな空間だったものが、きちんと「物理的な」(今回だったら、ネットワークケーブル)というものによって律速させられているというのを教えてくれています。個人的な理解では、量子力学という「物理法則」を用いて「情報科学」の本質だと思っている「定量的な限界」というものを示していくということが「量子情報科学」と呼ばれる学問分野なのだと思っています。私は、この「量子情報科学」という学問分野の中で研究を行っています。「量子コンピュータ」の開発がブームとなり、たまに分野の概観をするようなアウトリーチ活動を行っていますが、その中で協調させていただいているのは、「量子力学の法則を使って、「計算」の限界」を知る学問が、「量子計算機科学」であるのではないか?とお話しさせていただいております。

では、一体、どれくらいの通信容量が増えているのでしょうか?少し調べてみると、日本国内では大手のNTTコミュニケーションズが「インターネットトラフィックの推移」をまとめていただいています。どの時間帯が良いのかという指針にもなるかもしれません。実際に「実測された生データ」が様々集まってきていますので、今後、このような「生データ」をどのように活用していくのか?ということが重要になるのでははないでしょうかね?

そのような「生データ」やオンライン授業のプラットフォームが形成されている「インターネット空間」は、どのようになっているのでしょうか?その理念を以前教わった時に以下のように教わりました。

インターネットは性善説で出来ている。

ネットワーク攻撃などは目の見えない形になっていますが、「性善説」だからこそ、一部の人たちの「悪さ」みたいなものが目立ってしまうという理念のもと設計されています。インターネットの精神性そのものは、「皆で皆を守る」というものなのかもしれません。この理念こそ、今の新型コロナウィルス対策に必要な根本的な考え方ではないかと思っています。

でも、一方で「出来ないよ」という思われる方もいらっしゃるかもしれません。今回の「ダイエット」というネーミングは非常に素晴らしいと思っています。自分自身を思い返してみても、「自分自身の強い意志」がなければ、ダイエットは出来ません。自分で自分自身を追い込まなければならないからです。そのためには、一定度の「安定」が必要な気がしています。仕事が凄く忙しい時期に「断食ダイエット」など出来ませんし、もし、それでも強行したら倒れてしまいます。「ダイエットも出来る時にしか出来ない」と思うからです。そして、「出来る余裕のある人から」ダイエットしていけば良いのかなと思っています。「データダイエット」も同じです。やっている事例を見て勉強するのは良いと思いますが、「無理のない程度に」データダイエットすることが重要なのではないかと思います。

出来る事を出来るだけ

という精神が重要な気がしてなりません。今後とも無理しない程度にコロナ自粛生活を送っていきたいと思います。

May 4, 2020

教科書依存症

 新型コロナウィルス(COVID-19) 拡散防止のための対策として、緊急事態宣言が出されて早1ヶ月。「巣籠もり生活」と呼ばれる日々を皆さん送っています。私の場合、職場は緊急事態宣言を出されるのと同時にキャンパス閉鎖となり、学部長の許可無しにキャンパス内に入構することが出来なくなりました。学会や研究会・セミナーもほぼオンラインに移行し、すっかりパソコンの前で何かしらのオンラインツールを使ってお仕事をするということに慣れてきました。その一方で、ミーティングの量は減り、時間がとれるようになったので、「今がチャンス」と思い、本業である「研究」が格段に進むとも当初は思っていました。

 だけど、実際に「巣籠もり生活」をしてみると、なかなか思うようにスケジュールが回らず、「失敗もたくさんして」なかなか思うように進まないと思う日々を過ごしています。特に、「巣籠もり生活」=「書き物がたくさん出来る時間」=「論文執筆時間」(論文執筆は、「研究者」ということを仕事をしている人の最終的なアウトプット媒体です。昔も今も変わらないでいることは何故なんだろうと考えされます。)と思って、実際に多くの論文が執筆されていると聞いています。そのうち、「科学計量学」というべき分野の方々から定量的な分析が出てくるかと思いますが、「社会活動」と「研究論文」が密接に関連しているということは科学史の様々な事実から証明されていると思います。私が専門としている「量子力学」の形成にも「鉄鋼業の発展史」という「社会活動」が密接に関わっていたということは言うまでもないですし、更に言えば、山本義隆著「古典力学の形成」「磁力と重力の発見 1巻2巻3巻」、そして「16世紀文化革命 1巻2巻」を読むと、社会的背景があって近代物理学が誕生したということが読み解けます。当時、学問をやられていた人たちはそんな風には思っていなかったと思いますが、ある意味「必然」だったのではないか?と思うような感じに話が構成されているようにさえ感じます。さて、自分自身は論文執筆の「時間」だけは増えたものの、効率は極端に落ち、なかなか進まないという日々。それでは、何故、「論文執筆が進まないか」を考察してみようと思うようになりました。

 キャンパス閉鎖が決まり、その閉鎖開始日の前日、キャンパス外から内側のネットワークにアクセス出来るためのVPNアクセスを点検・整備したりしていました。更には、自分自身が持てるだけの「本」を持って帰ってきました。「巣籠もり生活」は今まで勉強してみたかった分野の本を時間があるので勉強してみようと思い、今まで読んだことがない本を持ってかえってきました。そして、「巣籠もり生活」をしている家には「本棚」がなく、今まで、家では職場で出来なかったことの続きが出来るような体制を組んでいたように思います。そのため、「教科書」など勉強してきたものは基本的には「職場の本棚」にあるということです。このような状況で、一からいざ論文を書いてみようと思うと、なかなか進みません。その理由で私が行き着いたのは
自分自身の研究を一から構成していない
ということでした。これまで10年ちょっと「研究論文」を書いてきました。それぞれに大なり小なり「新しい発見」「新しい知恵」を論文の中に入れ込んできたつもりです。しかし、自分自身のやってきた論文は、「誰かの論文や研究分野の基礎知識のもとに、それに積み上げる形」で研究を行ってきたことに気づかされました。これ自体、別に「研究活動」ということを行う上で当たり前のことではあると多くの「研究者」は賛同してくれますし、問題はないと思うのですが、問題なのは、自分の書こうとしている論文の基礎知識の多くを「教科書」の知識に頼り、自分自身で全てを再構築することが出来ないことでした。つまり、「教科書依存症」。「あの教科書のあのページあたりに書いてある」から確認したいということが多く、その「ちょっとの確認」が出来ないが故に論文執筆が進まなくなっているのではないか?と思うように至りました。一度、自分自身が勉強した「纏まっている」知識である「教科書」(もちろん、間違って書かれている部分もありますが)に自分自身の研究のベース知識を関連させていたのではないか?と分析するようになりました。自分自身の能力の現状をどのように受け止めるべきか、まだ戸惑っている部分がありますが、今後、自分自身の知識の整理の仕方をもう一度見直してみたいと思うようになりました。

May 2, 2020

「何かをするために」~今できることは何か?~

先日、高校の同級生である調布市立多摩川小学校の庄子 寛之先生の呼びかけで始まった「オンライン授業を通してこれからの教育を考えようプロジェクト」(仮)オンラインイベントで参加しました。事のきっかけは単純なことで、COVID19 という新型コロナウィルス対策のために、学校が閉鎖されている状況で、1人の小学校教員の庄子君の想いから始まったイベントだったと聞いています。正直な感想は、小学校のオンライン化はここまで進んだのか!!とビックリしていました。と、同時に様々な制約の中で、まだオンライン授業が始められないというところもありました。生徒さんたちにこういう世の中が激変している状況だけど、「何とかしたい、けど、何が出来るのだろうか?」と必死になっている小学校の先生方には感謝しかないなと思っています。様々な小学校の先生方の実線事例を勉強していくと、オンライン授業を実施するための多くの技術的&制度的課題が存在する一方で、大きな壁は「果たして、私でも出来るだろうか?」というものの壁が存在しているような気がしました。
提供:いらすとや


個人的には「何かをするために」は、それより前に準備が必要であろうと思っています。この事例のオンライン授業を開始するにあたっては、「オンライン授業」のための端末・ネットワークインフラの整備は必須です。大学のオンライン授業でも、wifi ルーターの貸し出しを行ったりするなどして対応に追われている部分もありますが、事前に準備をしていた方が圧倒的に有利だと思います。現在、使われているオンラインプラットフォームの多くも、この自粛期間に入る前に既にあったものを改良しながら使っているのが現状だと思います。 Google ClassroomZoom などのウェブツールは今では必要不可欠になっているのだなと実感しました。同時に、ネットワークインフラを支えている方々の努力で、現在の状況が実現出来ているのだと思います。普段、直接的には「目に見えない仕事」ではありますが、素晴らしい準備をしてきたのだなと思っています。「ローマは一日にしてならず」という諺があると思います。今、それなりにオンライン化が進められているところは有形無形のもの問わず、「準備」がしっかりしていたのだろうと思います。その準備の上で、スタートダッシュが切れたのではないか?と思いました。

では、「準備不足」の状況であった場合には何をすべきなのか?という疑問が沸いてくるのは当然だと思います。目の前で出来る限りの手を尽くして、ダメだったという事例も小学校の先生方には沢山経験されているそうです。今、この自粛期間にすべきことは
「次への準備」
ではないのだろうか?と思います。今から準備しても遅くはないはずです。自粛期間があけた後の「これから」について考える時間であって欲しいなと思っています。「何も出来ない」から「(少し時間はかかってしまうかもしれないけど)何か出来るかもしれない」になると思います。また、「何かしたいのだけど、何もしていない(または、出来ない)」と落ち込んでしまうのは、それまでの準備が足りなかったからだと反省し、今からとりかかれる準備をしっかりすれば良いのだと思っています。個人的には、東日本大震災の時、原発事故が起きて何も出来ませんでした。「大丈夫だと思う?」と聞かれても、自分自身の専門分野ではないので、ハッキリとは答えられませんでした。今回もそうです。私自身は物理学のトレーニングを受けてきましたが、今、現場で起きている感染症のことなどは分かりませんし、他の人たちよりは「論文」を読み解くことが出来るようにトレーニングしてきましたが、それでも今回の「感染症」に対して専門的な意見が言えるほど熟知していません。「直接的にせよ、間接的にせよ、準備をしていればチャンスが回ってくるはず」だと信じることが出来ることこそが、学校で本来学ぶことなのではないか?と思うようになりました。
いずれ皆さんの番は回ってくるはずです。 
それに備えて準備しよう。 

自己紹介

はじめまして、理論物理学者の 鹿野 豊 と申します。これから1人の科学者の目線で雑談するようなブログを書いていきたいと思います。
  • 何故、このブログを始めたのか?
 今は大学教員をしていますが、大学教員の半分の仕事は「研究者」としての顔です。ちなみに残り半分は「教育者」としての顔です。「研究者」としてのアウトプット形態は、昔より「本を執筆する」か「論文を書くか」ということでした。文章の形で書き残すことで、当時獲得した「知識・知恵・概念」を他に伝授してきた経緯があります。一方で、「大学」のような出会いの場に人が集めれなくなってしまった今日、自分自身が考えていることを書き残していこうかなと思い立ち、このブログを始めてみました。1週間に2回くらい更新できればいいなと思っています。
  • 今までどのような研究をしてきましたか?
 私の研究者としての目標は、「自然現象はどこまで観測出来るのか?」ということを定量的に明らかにすることです。特に、「時間は測定可能か?」ということに興味をもっています。
 大学院生時代は、「量子情報科学」と言われる分野の中で、量子力学という法則を基礎として、どこまで精密に量子力学的に振る舞う現象は測定できるのか?ということを目標にする「量子測定理論」と呼ばれる分野を研究していました。更には、ランダムウォークの量子力学的な模写で始まった「量子ウォーク」と呼ばれる分野に出会い、数理物理的なアプローチから「量子ダイナミクス」を模写するとは何かということを探索してきました。学位取得後、量子ウォークや量子測定理論は自然科学を解き明かすための理論なのか?と疑問に思うようになり、量子測定理論で培った道具だてを用いて、「光物性理論」と呼ばれる分野で光の言葉で自然現象を解き明かすということをやってきました。その中で、異なるタイムスケールを記述する理論体系があまりないこと、実験的な道具が揃っていないことに気づき、「ハイブリッド量子計測科学」と個人的には呼びたい、複数の測定対象に対して精密巧緻な方法を開拓していきたいと思っています。このような手法を開拓していくと、測定データが非常に膨大となり、「実データを取り扱う手法」を開拓する必要に迫られてきました。そのため、理論的な枠組みや統計的な手法を用いて、現象・データを「タンジブル (tangible)」 にするための手法論を研究しています。大学院時代に「量子情報科学」を研究していたことから、量子計算機の理論的な側面での開発に携わることになり、「乱数生成方法」を用いた量子ハードウェアの評価方法の研究を開始しました。そうやって研究している内に、「乱数とは何か?」という根本的な疑問にぶち当たり、現在は「量子乱数」自体も研究を行っています。
 一見、研究対象がフラフラしているような感じがしますが、「時間」も「乱数」も数学的には記述出来るけれども、どのように検証して良いかが分からないものを対象に「どこまで検証可能か?」という視点で研究を行っています。そのために、解析するための道具がなければ、独自に開拓していくというスタイルです。
  • どのような経歴ですか?
以下に私の経歴を書きます。産まれてから 東京→大阪→東京→宝塚→東京→東京→ボストン→東京→名古屋→東京→川崎 と引っ越してきています。
2002年 東京都立国立高校卒業
2003年~2007年 東京工業大学理学部物理学科
(入学時は1類。4年次は宇宙物理学理論研究室に所属)
2004年~2007年 4大学連合コース(東京工業大学・一橋大学)文理融合コース
2007年~2009年 東京工業大学大学院理工学研究科基礎物理学専攻 修士課程
宇宙物理学理論研究室(指導教員:細谷 暁夫教授))
2009年~2011年 東京工業大学大学院理工学研究科基礎物理学専攻 博士課程
(宇宙物理学理論研究室(指導教員:細谷 暁夫教授)。日本学術振興会特別研究員(DC1))
2009年~2011年 マサチューセッツ工科大学機械工学科 客員学生
(ホスト研究者:Seth Lloyd 教授)
2011年~2012年 日本学術振興会特別研究員(PD) (DC1 より切替)
(受入研究機関:東京工業大学大学院理工学研究科)
2011年~現在 チャップマン大学量子科学研究所 准メンバー
2012年~2017年 自然科学研究機構分子科学研究所 特任准教授
(若手独立フェロー制度での採用)
2015年~2016年 東京工業大学応用セラミック研究所 客員准教授 兼務
2017年~2018年 東京大学先端科学技術研究センター 特任准教授
2017年~2018年 JST ERATO中村巨視的量子機械プロジェクト 研究推進主任 兼務
2018年~2021年 慶應義塾大学大学院理工学研究科 特任准教授
2021年~現在   群馬大学大学院理工学府 准教授

東京大学先端科学技術研究センター(先端研)にて撮影